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書かれている事のまとめ
大町桂月の本より
- 明治のころ、鉄道が通らない出雲のあたりは変わった方言があり、なまりもひどかった.
- 人柄はのんびりしており、ごろごろ昼寝をする習慣があった.
- 15,6歳でも女を買い、風俗が乱れている.
- 桂月は出雲の人間を陰険であると評価している.




出典
【出版年】明治34年(1901年)
【著者】大町桂月
【書名】一蓑一笠
【タイトル】出雲雑感
原文の雰囲気は?
詩人歴史家烟霞の僻ある人はよろしく一遊すべき處なるに汽車未だ通ぜざるが為めに徃いて観光の遊を為すもの甚だ少なくその風光未だ文人の筆に上らず.われ出雲の為めに之を惜しむ我筆禿びたりと雖ども文人の片端也.黙々として雲州の山川に辜負すべきに非らず、、、
原文の現代語訳
-(出雲は)詩人や歴史家、放浪の癖ある人は、是非一度旅するべきとこであるのに、汽車がいまだ通らないために、行って観光をするものがとても少なく、その風光がいまだに文章家の筆に上らない.
私は出雲の為にこのことを惜しんでいる.
私の筆は短くなったといえども文章家の端くれである.ただ沈黙して雲州の山川に背くべきでなかろう.
〇出雲に入ってまず驚くのは、言語が異様であることである.
古い土地であるので言葉もきっと優雅であろうと予想していたのとはまるで反対で、あたかも外国へ行ったような心地がする.教育がない者と対話をするには、通訳が必要なくらいである.
中学校の生徒でも、小学校の教員でも、50音順を正しく発音する者が少ない.ある人が言うには、「出雲では17音順にて事が足りる.」と.あるいはそれも本当であろう.
「イ」の段と「エ」の段を混同し、「チ」と「ツ」、「ヒ」と「フ」、「リ」と「ル」、「ウ」と「ヲ」、「シ」と「ス」、「二」と「ヌ」などの区別がつかない.人を「フト」と発音して、鶴を「チリ」と言っていたり、非常に奇怪である.
次の民謡をもって、発音が不完全であることの一端をうかがってみたい.
わたしや をんすう ふらたの をまれ
「私や雲州(うんしゅう)平田のうまれ」
ずうる ぬずうる さんずうる
「十里 二十里 三十里」
ふがすのはてから ぬすのはてまで ふくずる ふっぱって
「東の果てから 西の果てまで 引きずり ひっぱって」
いまさらふまとて ふまとられうものか
「今更暇とて 暇とられようものか」
ふろいせかいに ぬすふとり
「広い世界に ぬし一人」
〇方言にも奇異なものが多い.騒ぐことを「敗軍する」といい、休止することを「たばこする」という類は、よく考えれば分かることではあろうが、ちょっと聞いただけでは分かり難い.
時計が止まっていることも、「時計がたばこしている」と言い、定期便の蒸気船が止まっていることも「蒸気がたばこしている」と言うに至っては、非常に奇異に感じる.
たばこの方言についておかしい話がある.
愛知県の郡視学[教育関係の役人]から今市の高等小学校校長に転勤した人がおり、出雲に来てからはまだ日が浅く、この方言を知らなかった.
ある時一人の生徒が、
「たばこしても良いか?」
と言ったので、その人は真っ赤になって怒り、
「小学校生徒たるものが、タバコとは何事だ!」
と叱ったことがあった.
〇体を売る女を「団子」と言っているのは、転ぶという意味であろう.しかし、みな自分の家でつくるだけで、別に団子を売っている店はない.
東京生まれの一人の教員が、団子が好きであった.
そしてまだ「団子」の方言を知らなかった.
ある時、
「ああ団子が食いたい」
と言ったところ、それを聞いていた書生一同がくすくすと笑いだした.
「なんで笑うんだ?」
と聞いても、答えないでますます笑う.あまりおかしいので問いただして、始めてその方言であることを知ったという.これも実際にあった話である.
〇同じく日本で言うと背面であるが、越前・加賀・越中・越後など北陸道は、汽車がすでに通じていてやや動きがあることを見る.
しかしながら丹後(今の京都北部)より西の、但馬・伯耆・出雲・石見など一帯の山陰道は、まだ汽車がなく汽船の便も良くない.ほとんど眠っているような姿である.
出雲あたりは、冬の寒さはかえって東京よりも軽いくらいであるのに、炬燵が重宝されていることは驚くばかりである.客が来るとすぐに炬燵へ引き入れて、これにあたりながら酒を飲むのを習慣にしている.商人も店先に炬燵をだきながら物を売っている.2階にまで炬燵があることは、到底東京では見ることが出来ないだろう.
春の末からは昼寝が流行る土地で、街を歩いても人が起きている店はほとんどなく、みんなごろごろと店先に昼寝しているので、起こすのも気の毒に思えて、買わずに帰ることもあった.
このようでは泥棒の心配がないだろうかと聞かれたところ、ある人はふざけて、
「けっしてそんな心配はない.なんであれば、泥棒もまた同じく昼寝をしているから.」
〇島根県の小学校教育は、他に比べて優等の部類である.中学校教育もほかとそん色ない.
ただ、弱々しく陰険であるとの一言は、今のところ出雲の人間がまぬがれることが出来ない評価であろう.江戸っ子的の気性は出雲に見ることが出来ない.むしろ上方贅六に近いというべきである.
恥を重んじる気風がなく、しっかりと約束を重んじることなく、その風俗は乱れている.15,6歳の少年でさえ女を買う.人情は軽々しい.恋にせまって死ぬほど情熱あるものを見ない.殺人を犯すほど凶悪ではない代わりに、つまり悪に強くない代わりに、善にも強いわけではない.義に勇気をかざす気骨もない.
人の前では猫のようにおとなしいけれど、心の底では誠意がなく、ただふわふわとして固く守っている所が内にない.少し気が利くような気風には富んでいるが、男らしくない.自らの利益をねらうのに賢いが、公共のためという心に乏しい.
言ってしまえば、小利口ではあるが、誠意と情熱とがない.このままでは大人物は出てこないだろう.