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書かれている事のまとめ
明治時代の本より
江戸時代、軍事を好んで学んでいた山田長政という男がいた。
徳川氏の天下になって世の中が平穏になったが、自分の力を発揮できる場所を探していた。
そしてある日、海外貿易を行う商人に頼んで船にのり、やがてタイに渡る。
その後タイの国王に頼まれて隣国との戦争に協力し、国王の娘の婿となり、ついには国王となった.

出典
【出版年】明治26年(1893年)出版
【著者】国文中学読本 二の巻上
【書名】関口 隆正
【タイトル】山田長政
原文の雰囲気は?
時に駿府馬場町の紺かき、山田九左衛門の養子に、仁左衛門といふ人あり.好みて弱を扶け、強を挫き、家の業を治めずして、劔つかふ技を学び、軍する術を習ひしが、世の中穏になりて、その力を伸ぶる所なかりければ、外国に渡りてこそ、功を立つることもあらめと思定めて、、、
原文の現代語訳
今から300年ほど昔は、ホルトガル・オランダなどの国々から、商売をしようと毎年平戸や長崎へ来国する船が多くあった.
また京都、大坂、堺、駿府などの商人も、諸越(もろこし 中国)はもちろん、台湾・安南(今のベトナムあたり)・呂栄(今のフィリピンルソン島)などへ渡って商売するものも多かった.
徳川氏が天下の政治をとり行う世の中となってからは、外国へ行くものは朱色の印を押した文書を与えられるのがおきてとなっていたので、外国へ行く船の事を御朱印舟と呼んでいた.
御朱印をたまわった商人の内に、駿府の人で瀧佐右衛門と太田治右衛門という者がいた.
二人は慶長(1596年~)のはじめごろ、船の準備をし、台湾へ出発しようと支度を整えた.
そのころ駿府馬場町の藍染職人、山田九左衛門の養子に仁座衛門長政という人がいた.
自ら好んで弱いものを助け、強いものを倒し、家業に力を入れずに剣術を学び、軍議を習っていた.しかし世の中が穏やかになったのでその力を生かす所が無く、外国に渡ってこそ功績を立てることもあるだろうと決心した。
そして佐右衛門達に自分の目指す所を伝えたものの、恐らく長政の人となりを疑ったのであろう、佐右衛門達はその願いを聞き入れなかった.
こうして治右衛門達は、いかりをあげて出港し大坂へ到着したが、長政はさきに大坂へ来ており、強く希望してきてやまなかった。
よって二人は、長政の望みに任せてついに台湾まで連れて行き、この土地にてお互い別れて帰って来た.
こうして長く年月が経った後である。治右衛門達二人は、暹羅(シャム 今のタイ)に行けば莫大な利益が得られると聞いて、はるばるシャムまでやって来た。そうしたところ職人たちに迎えられて、曼谷府(バンコク)の王宮に足を運び、国王に拝謁した.
国王は綾の衣を身にまとって、高い冠をかぶり、たくさんの兵が王の左右をかこんで、非常に厳しく見張っていた.
二人は非常に恐縮してしまったが、王は仕える者に命じて二人をとても美しい館に案内し、めずらしい酒とさかなを与え、手厚くもてなされた.
こうして夜にもなったとおぼしきころ、そっとしずかに二人の館に入ってきて、治右衛門達の肩をたたき、
「その後は変わりも無かったか?」
と言う人がいた.
目をこらしてその人を見ると、まさに国王であった.
二人はかなり驚いたが、王は静かに語りだして、
「お二人は見忘れたのか?私は仁座衛門だ.
さてあの年、台湾で別れてこの国へ渡ってきたが、隣国との戦争でこの国はとても危なかったところ、国王に頼まれてこの土地へやってきて、多くの国民を語らってついに敵の軍を打ち破った.
その功績で、王の婿となり、イッピールのあるじとなった.
後にシャムの政治が乱れたときに、ほかの人々に推薦されてついに国王のくらいまで登ったんだ.
そうして今はこうも、これより上もいない高い身分になったけれど、生まれた国は遥かな波路にへだたっているので、錦を着て故郷に帰ることが難しいのは残念だ.
しかし今夜、長く会っていないあなた達とこうして物語りをするのがとてもうれしい.これから後は、この国へ来る日本の商人を厚くもてなして、たくさんの利益を得られるようにしよう.」
と非常に心を寄せて話をする様子は、昔の仁座衛門に変わらなかった.
さて二人が出発する時には、さまざまの贈り物を送った.
そののち寛永10年(1633年)のころ、シャムがまた乱れたときに、仁座衛門へ毒をひそかにすすめた者がいて、人生の終わりを全うしなかったという.とても惜しいことである.
寛永3年の事だという.駿河の国(今の静岡あたり)の商船が、大風に吹き流されてイッピールの国に漂着したことがあった.
それが帰ろうとしたときに、軍船を描いた額に長政が自ら名前を書き入れて、それを商人へことづてし、
「私がこのように志を得て出世したのも、まさに日本の武威と産土神(生まれた土地の神)の御蔭です.ですので、あなたが国へ帰ったら、この額を浅間権現の社にかけて下さい.」
と言ったという.
この額は、近頃まで浅間の社にあった.天明8年(1788年)に火災で消失してしまったが、榊原何某が書いた額のうつしは、今もなおその社に残っている.