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書かれている事のまとめ
明治時代の本より
- 銅版画の技術の始まりは、永田田善という人物.
- 田善は松平定信に気に入られ、その後司馬江漢の弟子となり、オランダの銅版画を見て技術を磨いた.
出典
【出版年】明治26年[1893年]
【著者】「繪畫叢誌」より
【書名】中学読本
【タイトル】銅版のはじめ
原文の雰囲気は?
陸奥国岩瀬郡須賀川驛に世々紺掻を業とせし、永田昆山と云ふ人ありき.この人、好みて山水人物などをよく描きしが、其の子善吉は、幼き頃より、父に学びて画を書習ひ、年長けて、江戸の谷文晁の画を見て思へらく、余、死になむ時まで学びぬとも、此の人の上に立たむこと難かるべし.、、、
原文の現代語訳
陸奥国(今の福島県、宮城県、岩手県、青森県と秋田県の一部)、岩瀬郡須賀川の駅に、代々藍染の職人であった永田昆山という人がいた.
この人は好んで山水や人物などを描いていたが、その子供である善吉は、幼いころから父親に学んで絵を描き習った.
善吉は年が大きくなってから、江戸にいる谷文晁の絵を見て思ったのは、
「私が死ぬ時まで学んだとしても、この人よりも優れた絵描きになることは難しいだろう.それであれば、過去の人が描かなかった作風を描きだして、世の中に出たいものだ.」と.
そうして志を起こした.
この時から、もっぱら力を写生に入れて、その名前がだんだんと有名になっていったので、弟へ藍染の家業をゆずって、自らを「田善」と呼び、ひたすら絵を描くことばかりに力をつくしていった.
このころ、賢明との評判があった白河の楽翁公(松平定信)が田善の絵をみてこれに深く感心し、田善にすすめて江戸に行かせ、司馬江漢の元につき、油絵を学ばせさせた.
ある時松平公が、オランダの国から送られてきたゼルマンの都市や公園などを銅板にけずって刷った絵を田善に見せたところ、田善は実にその絵の精密であることに感動し、日夜工夫をこらして、ついにこれを模倣して彫りなした.松平公は、それが優れていた為にこれを褒めて、田善を長崎に送り出し、銅板を習わしたところ、その技量は非常に進んでいった.
日本にて銅板を彫る技術は、田善より始まった.田善の名前を「亜欧堂」とも言う.これは「亜細亜(アジア)」「欧羅巴(ヨーロッパ)」という意味との事である.
ある人の言葉によると、松平公は司馬江漢と田善の二人の技量を愛し、世の中へは長崎にて技術を学ばせている言っていたが、その実際はオランダの人間へ頼んで、二人をヨーロッパに行かせていたのである.
しかしながら、このころは外国へ渡ることを厳しく禁止する国のおきてであったので、知る人は誰もいなかったという.
さて、田善が長崎よりかえって来たあとは、武士に身分を取り立てられて、その技術に功績をあらわした.そして文政5年(1822年)に72歳で亡くなった.