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書かれている事のまとめ
明治時代の本より
- 高田屋喜兵衛という男が徳川家の命令を受けて、蝦夷(北海道)より択捉島へ渡った.
- 現地人と交流を重ね、その甲斐もあって、択捉の人は日本へ心を寄せるようになっていった.
- ロシアが蝦夷内で乱暴なふるまいをしたため、蝦夷の役人がロシア人を捕虜にした.
- 嘉兵衛が日本の役人とロシア人との仲を取り持ったおかげで無事に解決した.

出典
【出版年】明治25年(1892年)
【著者】作者不明
【書名】中学読本
【タイトル】高田屋嘉兵衛
原文の雰囲気は?
高田屋嘉兵衛は、躬幹、偉大ならざるも、眼ざし凡ならず.犯し難きけはひありし人なりとぞ.幼き時より、水主に雇はれて、舟に乗り習ひ、年長けて、攝津の兵庫に住み、運漕を業とし、まだ通路も少かりし、松前に往来を始めぬ.、、、
原文の現代語訳
高田屋喜兵衛は、体が大きくないものの、目つきが平凡な人間ではなく、一線を越えづらい雰囲気がある人であったという.
幼い時ときから船乗りにやとわれて舟に乗り習い、年が大きくなってからは、摂津の兵庫に住んで海運送を仕事ととし、また海路も少なかった頃に松前(北海道の地名)へ行き来を始めた.
寛政11年(1799年)、嘉兵衛は将軍家の命令をうけたまわって、幕府の役人を乗せて択捉島(エトロフ島)へ渡った.このエトロフ島には400,500人の現地の人々が住んでいたが、ここがどの国の領地とも知っているものはおらず、夏には鮭などをとり、冬は穴にこもって寒さをしのぎ、魚をとる方法すらよく発展していないところであったという.
こうして嘉兵衛は、この時からしばしば択捉島へ行き通って、深く現地民をいたわり、衣食を与え漁の道具などを持ってきては、現地民の便宜を図ったので、現地民は非常に恩に感じて心を日本へよせる事となった.多くの漁場も開拓していって、嘉兵衛も非常に裕福になった.
そのころロシア人のカムサツカ(カムチャツカ半島)にいたものが、しばしば蝦夷(北海道)の土地にきては、乱暴がましいふるまいをすることから、蝦夷の役人は非常に怒って、あるとき測量のために来たロシア人を誘ったかと思うと捕虜にした.それをリコルドというロシア人が、何とかして捕虜となった人々を救い出そうと、さまざまに考えをこらしていた.
ある夜、嘉兵衛は大船にたくさんの荷物を積み乗せて、船乗り40人ほどで夜の嵐の中に帆を引き上げ、択捉から松前へ船出した.日の出にかけて濃い霧の海路を、ようやくかじを操って船を進めていたところ、急に鉄砲の響きが聞こえて、20,30人ばかりの人々が嘉兵衛の船へ漕ぎ寄せてきて、我先にと乗り移って来た.
その人々は、瞳の色も髪やひげの様子も、日本の人とはだいぶ変わっており、手に手に剣を抜いている者もあれば、鉄砲をたずさえた者もいた.船乗りはその勢いにおそれたのか、なすすべも知らなかったが、嘉兵衛は少しも騒ぐ様子も無く、
「何者であれば、こんな無礼なふるまいをするのだ?」と叱ったところ、その勇気に驚いたのであろう、攻撃してくるものもいなかった.
嘉兵衛はことの理由を知ろうと思い、船に向かっていって船長リコルドに会ったものの、お互いに言葉が通じないので状況を知る方法も無かった.
しかしながら、以前より聞いているロシア人だろうとわかったので、自分の舟は松前へかえして、4人の船乗りを従え、リコルドにともなわれてカムチャツカへとおもむいた.
嘉兵衛がカムチャツカへ行ったのは、日本とロシアの間を取り持って、大きな問題にしないようにとの心であった.
さてようやくカムチャツカの言葉を学び知り、リコルドに向かって蝦夷をかすめ取ろうとすることは人の道でないと論じ、また私の命にかけても捕虜となったロシア人を救おうと約束して、200日ほどもたった後、リコルドとともに軍艦に乗って国後島(くなしりとう)へ帰って来た.
そうして事の様子を知らない島の役人にむかっては、
「捕虜としたロシア人を返さないとゆゆしき事態を起こすかもしれない.」と、真心をつくして切実に説明する.
また日本の状況を知らないリコルドに向かっては、
「捕虜となっている人々を救おうと思うのであれば、かすめ取った物を返して、謝罪状を松前の奉行へ出しなさい.」と言葉を元気づけて、何度も何度も言い争い、このことがうまく行かなければ自分も死ぬつもりであるような勢いで説得した.
そうしてこの事は、文政9年(1826年)に至って嘉兵衛が計画した通り、めでたく事がやんだという.
その後、リコルドは「遭危日本紀事」という本を書き、嘉兵衛の大胆で度胸があり、国に報じる意志が厚いことを称賛したとの事.
嘉兵衛の事は人並ならぬ丈夫(男子)とこそいうべきだろう.