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書かれている事のまとめ
江戸時代の遊女より
江戸時代、オランダ人に求婚され船で外国へ渡った遊女がいた.その後子供も生まれ、何不自由なく暮らしており、18年後日本にいる母に向かって書いた手紙.
出典
【出版年】大正元年[1912年]より出典
【著者】下記記載
【タイトル】書簡文
原文の雰囲気は?
「しめしまいらせ候」というような、女用の手紙文
原文の現代語訳
手紙を書いた遊女の紹介 現代語訳
大阪谷町上小橋北という所の、入堀屋清兵衛(いるばりやせいべえ)という者の娘で、長崎丸山の遊女であったが、当時貿易のために来航中のオランダ人フルテルユーと言うものと夫婦の約束をして、文政八年(1820年代)9月2日の夜、長崎から出てオランダに赴いた。
その後18年ぶりに親元に送った手紙で、いわゆる「和蘭文(おらんだぶみ)」というのはこれである。
本文の現代語訳
「本当に…お懐かしいまま、手紙を申し上げ参らせました。まずまずご機嫌良くいらっしゃいまして、めでたくも、お懐かしくも存じ上げております。
このように言えば、私と言うのはふと致しました縁で、オランダの人フルテルユウとおっしゃる方と夫婦の約束をし、文政8年(1825年)9月22日の夜に、長崎港から船に乗りました。
恐ろしい沖の方へ参ります所、しきりにお母様の事を思い出して懐かしく、7日目にアグの西南の方向、松の木の間に見えるのは富士山と聞きまして、見納めと存じましては限りもなく懐かしく、いよいよ泣き暮らしておりましたけれども、どうしようも無く、その日も過ごし、その夜大風が吹き出して、20日ばかりは昼夜と無く船も走りました。
風も止みましたので、船やぐらと言うところへ上って、周りを見渡しますと、東南だという方向に一つの島が見えましたので、”あれはどこでしょうか?”と尋ねてみると、”イギリス”といって日本の地を400里程は離れている旨を聞きました.
それから船が泊まり、またまた明け方風が吹き出して、ここは唐の北海とやら言う所とのこと.船が走って行くこと30日ばかり、だんだん風もおだやかになるにつれて、”あとオランダへはどれほどでしょうか?”と尋ねてみれば、2000里もあるとのことでした。
私がした因縁とは言いながら、このような遠くの人と縁を結んだものなのだと思うと、わが身の事を恨んで、またまた泣き暮らしました。
さてさて親不孝の罪は避けることができず、お母様にもただただ恨まれておりましょうと、思いわずらっている内に、正月13日にインドのイハエという所へ船がついて、そこはオランダ船の問屋であるということでした。ミヤキウと言う家に長く逗留いたしておりましたが、その地の人々は日本人がやって来たと珍しがり、5,6里10里20里先から私を見物に来ました。
それよりまたまた船に乗り、5月1日ようやくオランダのケエケルという所へ船がついて、その国へ到着致しました。
フルテルシという家の名前で御座いました。何一つ不足なく暮らしている様子ですので、まずまず落ち着きましたけれども、食べ物は粉菓子のような物をいつも食べております。
五穀は少しも無く、私は日本の人であるからと、インドから米を取り寄せて食べさせてくれますので、少しも苦しいことはなく御座いますが、ただ日本の事ばかり思い出し、悲しく泣いて暮らしておりました。
こちらの妹は気の毒に思っている様子で、相談の上、50坪ばかりの田地に日本のような家を建てて、その内へお母様と妹の姿を木像で造って、日本にいる真似をして、中で酒盛りを致しまし色々なぐさめて下さってくれるので、少しも不自由はなく、家内むつまじく暮らしておりますので、まずまずご安心下さいませ。
それより出産して、もう今年7歳になる子供をイリキンユと申します。日本の話をして聞かせればシャモリンエと言うものは、母様・おば様に会いたいと言う事でございます。
こちらは、日本の昼七つ時分(夕方くらい)は、夜の明け方にあたるとの事。私も夜明けになれば日本の事ばかり思い出し、シャモリンエと泣き暮らしております。
私の心からとは言いながら、いまさらどう仕様ともなく、心の内をお分かり下さり、不憫と思し召し下さりませ。
長崎の友達へも手紙を出したく思ってますが、中々難しく、お母様へ手紙をしてご様子を尋ねたく思っておりましても、格別信頼できる人でなければ一筆の手紙も御願いする事が難しく、長崎の通詞へ賄賂を渡して御願いいたしませんと、私の身が厳しくなり、その上夫もそちらへ行って活動する事が難しくなることとなり、そういった理由から手紙も差し上げずにおりました。
このたびふとした便りで手紙を差し上げました。これはまったく神明さま、天満の天神様、その外八百万の神々様の祈り給わりです。
またまたこちらから、珍しい品物差し上げたく思いますが、手紙さえ難しく特別のことさえ書かなければ、たとえ人目に触れても格別のお咎めもありませんでしょうし、良い機会だと思いまして、私の髪を切って差し上げますので、これを私と思い下さるよう願いあげます。
そちら様からお手紙を下されたくお思いなされるならば、人を用意し、名前がモウヤ、フルテルユウと頼んで、通詞に宛名下されませ。手紙は届きます。
思えば思えば親不孝の罪、くれぐれも恐ろしい次第で、かさねがさねもお許し下され、よくよく悪縁と諦めなさってくださるようお願い申し上げます。
妹のおてふの事、私とおちょうも私の替わりに、お母様へ孝行いたしてくれるように、かえすがえす願い上げ参らせます。
申し上げたいことは海に山に御座いますが、筆がまわりかねて、ごめん下され、まずまずあらあらめでたくかしこ。フルテルユウ内、ふみ事アンナと申す。堀屋清兵衛様。御母様。おてふ様。」