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書かれている事のまとめ
福澤諭吉の本より
- 妾を「公然たる多妻法」と呼び、廃止するか、そうでなくとも軽蔑すべきであると言った.
- 女性の高尚な学問教育は第2の事であるが、女性の権利の向上の為に、男子が婦人を道端に散らばった落とし物のように好き勝手するのを止めるべきである.
- 人間世界は、手に入れ難いものは尊くて、手に入れやすいものは卑しい。

出典
【出版年】1897年(明治30年)発行
【著者】福澤諭吉
【書名】福翁百話
【タイトル】第35 女子教育と女権
原文の雰囲気は?
女子の教育固より等閑にす可らず学問上の心得なくしては飯を炊くことも叶はぬ筈なり況して其以上の針仕事料理向より病人の看護、子供の養育等家事万端に就き無学文盲にては迚も家に居ることは叶はぬはず学問教育の大切なるは男女共に.....
原文の現代語訳
女子の教育は当然おろそかにすべきでない。
学問上の心得がなくては、飯を炊くことも出来ないはずである。ましてそれ以上の、針仕事、料理から病人の看護、子供の養育など家事全てについて、学問が無くて文字も読めなければ、家にいることはとても上手くいかない。
学問を教育することが大切であることは、男女ともに同様で相違がないというとも、結婚する上において婦人に限っては、家の内をおさめまた子供を養育する役割があって、外の事に関係することが少ない。
そして自然の流れから、専門の大学者となるための機会が少なく、またその必要も無いために、人々の身の有様に多少の相違はありながらも、平均的なところで婦人のために特に奨励すべきなのは、ただ普通の教育と知見のみである。
高尚なる学問教育はまず第二の事として差し支えないだろう。
また世間の教育家と名乗るものは、わが国における男女の関係を見て、男尊女卑の劣った習慣を憂慮することが強く、女子教育の重要性も、自然とそのあたりに考えるべき事があるようである。
確かに至極もっともなことであって、女性の権利がふるわない事については、ぜひとも古い習慣を一掃して、正当の道へ運ばせなければならない。
ただその方法を考える時に、上手い案がないので苦しむところではあるが、私の考えでいうのであれば、男女の間に行われる無限の劣った習慣を数え上げてペラペラ話すよりも、何はさて置き、公然たる多妻法[一夫多妻]を禁止するだけで、かえって大いに実行と効果を立てる事があるだろうと信じるのである。
およそ人間世界に、手に入れがたいものは尊くて、手に入れやすいものは卑しい。
今多妻法は、男子のために妻を得る方法を簡単にすることであって、その得やすいものは自然と卑しくないままでは有りえない。
これに反して女子の一度嫁いだ者は、簡単にその家を去ることが出来ない。
「貞女二夫に見えず(貞女は二人の夫に仕えない)」とも言い、女子の方で夫を得る方法は非常に困難であって、つまりは得がたいものであるので、それの尊い事も自然の流れであると言わざるを得ない。
故に社会の風潮がようやくその様子を改めて、人々がみな多妻法の否定するべきを悟り、それを男子の醜い行いとして、めかけを囲い、女を買う道を根絶(たとえ表面だけでも)するだけでなく、結婚した妻を亡くして男が再婚をする時さえも、世間を気にして多少の難しさを感じる様な習慣をなすまでになれば、たとえ婦人の権力を大きくしないと望んでも、大きくならないはずはないだろう。
西洋諸国にて、女権の発達うんぬんと呼んでいるが、西洋の男子ばかりに特別婦人を重要視する性質があるのではない。
その実は、はやくより一夫一妻の習慣を行って、その習慣の外に出ることができず、遂に男子に対して婦人を得るための方法に困難を感じさせた事により、ただその得がたいものをありがたく思うというのみである。
私たち日本国の男子が金さえあればめかけを買い、芸妓をかこって、仲間や友達に咎められることもなく、再婚・再々婚もごく当たり前のことで、亡き妻を葬式で見送った帰り道に、早くも後妻の心当たりをうんぬんするおかしい話さえ、なきにしも有らずである。
男子のために婦人は、まるで店頭に客を待つ売り物のように、道端に散らばった落し物のようである。
その数の大小にかかわらず、欲しいと思えばこれを買い、また対価無くこれを拾うことも非常に簡単で、これを得た上は西洋諸国のように必ずしも隠す必要もない。
公然と世間に言いふらして、家に置こう、子を産もう、その生まれた子供もまた普通の子供として他人と過ごしていくだろう。
こうも無造作に得られる婦人を、男子と争わせようとするのは、そもそもまた難しいと言うべきだろう。
それであれば女子の教育は、一般の男子に等しく決して怠るべきでは無いと言った所で、その教育の一片のみをもって女権をうんぬんしようとするのは、到底効果がない姿である。
かりにも世の中で多妻の醜い風習を禁止するか、たとえこれを禁止するに至らないまでも、これを軽蔑する雰囲気をつくって、男子が好き勝手にふるまう道をふさぐのでなければ、婦人社会は依然として昔のままとなってしまうだろう。