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書かれている事のまとめ
福地櫻癡の本より
- 幕末、開港の延期を依頼するために、ヨーロッパの帝王に会いに行くことになる.
- 味噌やわらじなどの持ち物も、始終日本的な感覚でこだわって支度したが、結局全部無駄になった.
- 「私こそが武士だ.」という様子で刀を差したままヨーロッパを巡遊し、あまり為にならなかった様子.

出典
【出版年】明治27年[1894年]
【著者】福地櫻癡[福地源一郎]
【書名】懐往事談
【タイトル】第八 幕府三使が欧州へ向かって発遣
原文の雰囲気は?
、、、其の出発の支度に就ては種々可笑しき談柄どもありて其時すら捧腹に堪へざる程の事多かりき通弁翻訳に従事せる人々は西洋は云々なればさる御用意には及ばずと或は洋人に聞く所に據り又は書籍にて読む所を以て三使へ申立て又小栗豊後守は米国へ使せられたる実験を引て忠告に及ひたれども、、、
原文の現代語訳
そうして幕府は、竹内下野守・松平石見守・京極能登守の3人を特命全権公使に任命し、欧州条約に関係する諸国、つまりイギリス・フランス・ロシア・オランダ・フランス・ポルトガルの6カ国へおもむいて帝王に謁見し、訪問の礼儀をおさめて、合わせて両都(江戸・大阪)両港(兵庫・新潟)市場延期の談判を達成するよう命じ、諸国の帝王への国文書及び全権委任状を、外国の例に習って渡された.
中略
日本の使節を出迎える船は、イギリスから軍艦を横浜まで出すと、イギリスより照会があった
出来る限りは一行の人数を減らして、持っていく荷物も少なく省くようにとしきりに注意があったので、これに従って緊急に減員をしたものの、なお30人ほどの集団である.その荷物は、大君(将軍家)から各国の帝王・宰相への贈答品や、一行の衣服や携帯品で、山をなすほどだった.
その出発の支度については、いろいろおかしい話題があって、その時ですら腹がよじれるのを我慢できないくらいの事が多かった.
通訳や翻訳に従事する人たちは、
「西洋はこうこうだから、そのようなご用意は必要ない」
と、時には西洋人に聞いた所から、または書籍で読んだ所から3人の公使へ言葉を申し上げて、さらに小栗豊後守はアメリカへ派遣された実体験をもとに忠告に及んだ.
しかしながら、
「いやいや、アメリカはそうかもしれないが、ヨーロッパはまた別の話かも分からない.洋人が言うところをうかつに信じて支障が出たら、日本国の御恥辱だ」
と簡単には従わなかった.
ただし、かご・持ち槍・甲冑・挟箱は不要であるので持参は行わないと、非常なる英断で決定したものの、3人の公使だけは、手槍および鞍・鐙の馬具は持参すべきであると持って行った.
それから筆や紙の用意になり、食料の支度として、米は白米を幕府の御蔵から受け取り、醤油と香の物などは買い上げて、
「味噌は腐敗しやすい品物なので通常のものだと腐ってしまう恐れがある、どうするべきだ?」
と会議がまとまらなかった.
私たちは切実に「持参不要」と止めたけれども、どうして聞き入れることがあろうか.
「あなたたちの任務の外のことなので、おだまりなさい.」
との一言にしかりつけられて、
「それであればご決定次第に.」
と沈黙して、そのするところを見ていた.
そのころ長沼流の軍学者誰々という者の説に、
「我が流儀では、甲州の武田信玄の戦以来、軍用として”万年味噌”の伝承がある.この伝承で練り上げた味噌であれば、赤道直下で太陽にあたるとも、決して腐敗の恐れはない.」
と言うのを聞いた.
「よしそれは好都合だ、依頼せよ.」
と組頭の指図で製造を命じ、中ビン数個に詰めて持参したものの、気の毒にもこの万年味噌は香港とシンガポールとの間で早くも腐って、悪臭がたえがたく、乗船士官から苦情があったため、ビンにいれたまま海中に投げ捨てて、龍王へ献上した.
また、外国方(外交の役人)の評議には、
「アメリカこそ陸に鉄道は通じているが、西洋においては諸国遍歴の長旅に、すべて鉄道あり、馬車ありで、歩行することが無いとは信じがたい.」
「山岳や原野の間など、車も通行しない地域では、公使・組頭および御目見以上の面々は乗馬をすべきだろうが、いかに西洋といっても、一行30余人でまったく乗馬の用意に支障がないとも思われない.そうした場合に臨んで、はきものの用意はどうすべきだ?
西洋の靴など使用しては、神州(日本)の大恥辱である.ぜひわらじの用意をするべきだ.」
といって、御目付方と打ち合わせたところ御目付方も同じ考えであった.
私たちはまたまた、
「その心配には及ばない」
と説明したものの、なかなか聞き入れられなかった.
「しかし不要になるかも知れないので、用意にはだいたい1,000足もわらじを持参すれば足りるだろう.」
と議論が決定した.
さてそのわらじは、これも長沼流の軍学者の説で、
「”甲州流軍用みょうがわらじ”を用意すべし.」
と言ったのによって、どうするか定まった.
そうしたところ、当時幕府の制度では、現品受け取りを基本規則としていた[交付すべき現品がなければ買い上げるのを許さなかった].そのため先ほどのみょうがわらじの交付を、小細工所または御納戸に請求したけれども、
「そのような品はこちらにはご用意なし.」
と突っぱねられた.
それであればと大番頭および両番頭に照会したところ、
「われわれ御番士は、騎馬の任務であるから、わらじの用意は致さない.」
との返答であった.
この上はどうしようかと御目付方へ問い合わせると、
「軍用わらじは小十人頭に通達するべし.その理由はうんぬん」
との指示があったので、直ちに外国奉行から通達したところ、小十人頭は、
「わらじの調達を通達されるとはけしからん事だ.」
と立腹して拒絶の返答を行った.
外国方はよしちょうど良いと、
「そもそも小十人は、将軍家の御馬巡りを歩行して警護するための役職であるから、軍用のわらじはそちらに請求するのが当然だ.すでに御目付方より承ったことなのに、承諾がないのはどういう心得にていらっしゃるか?」
と反論を行って、ついに一つの大議論となった.
やがて小十人頭は軍政の論理に屈服して、それから急に軍学者に問い合わせた上、職人を雇いあげ、臨時に”御軍用草鞋製造がかり”数人を任命し、ようやく1,000足のわらじを製造して、外国方に引き渡した.
もっともこのわらじは、船の中では不用なので、郵便船で準備したお米と一緒にあらかじめフランスのマルセイユに回送して置いたが、残念ながら一足も使わずにその場所へ預け置き、帰るときになってその廃棄をフランスの接待官に頼んだので、どうなったかその最後は知らない.
もろもろ皆こんな状況であるので、純粋な日本風でもって文久元年(1861年)12月2日に品川沖からイギリス軍艦オーデン号に乗り込み、長崎で石炭を積み入れ、おなじ文久2年正月元日の明け方に長崎を出帆して香港へ向かった.
イギリス軍艦側では特別に注意を払って一行を待遇したものの、飲食は全く違い衣服も行動も日本側はすべて軍艦の規律に反対であるので、船長・士官は日本使節の不作法なのに困惑して、少し規律を守ることを希望する.日本の一行はまた、船長・士官たちが、ささいなことで我々の行動に苦情を述べてくるのをわずらわしいとして、不平を出し、そのせいで間に挟まれた通訳・翻訳の人たちはずいぶん苦労を極めた.
とくに公使の中でも石見守は、もっとも日本風を守られた.
すでに香港にて一行の中の誰々が、洋靴を買って履いているのを見とがめて、厳しくこれをしかりつけ、
「その国風を乱すのを理由に、これから日本に追い返すべし.」
とまで言い出し、さんざん謝罪してようやく許されたことがあった.
このような心の底であるので、三使および一行も、西洋諸国を巡回中少しも我が国の風俗を乱さず、羽織・袴・大小の刀・草履で陣笠をかぶり、パリ・ロンドンの市中を遊覧しても、さらさら恥じる様子もない.
大きい態度で大小の刀を腰に横たえて、「我こそ日本の武士なれ.」という風采で大手を振って歩いていた.
しかしながら、欧州文明の事物を案内に応じてことごとく見聞きしたけれど、たいていは心ここに無いまま見過ごして、心にとめたのは30余人中でわずかに数人以外はいないので、その帰国の時になっても、欧州巡回の功績は直接も間接も現れるところはなかった.
(備考 この一行に翻訳官として福澤諭吉が乗船しています.)