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書かれている事のまとめ
福澤諭吉本より
- 田舎者が正直だというのは、閉鎖的で見張りがある環境がそうさせているだけで、人そのものに違いがあるわけではない.
- 世の中すべて田舎となって、人が子供のように純粋になったとしても、社会は田舎者にも子供にも任せるべきでない.
- 交通を発達させ、情報の伝達を早めることが、社会全体を田舎のように悪さをしづらい環境にすることへつながる.

出典
【出版年】1897年[明治30年]
【著者】福澤諭吉
【書名】福翁百話
【タイトル】正直は田舎漢の特性に非ず(八十七)
原文の雰囲気は?
田舎の人は律儀正直にして小児の如し眞に愛す可しとは世人の常に言ふ所にして実際に於てもその然るを見る可しと雖も退て事の裏面を視察すれば其律儀正直は唯田舎に生活する間のことにして之を都会繁雑の地に出せば種々無量の事情に摩擦せられて次第次第に横着者と為り時として奇計を運らして、、、
原文の現代語訳
「田舎の人は律儀・正直で子供の様である。真に愛すべきである。」
というのは、世間の人が常に言う所であって、実際においてもまたそうで有る事を見るだろう。
そうは言っても、一歩下がって事の裏面を観察すれば、その律儀・正直はただ田舎に生活してる間のことだけであって、この人を都会の煩雑な土地に連れ出して見れば、色々のつきない事情に摩擦されて、次第しだいに横着者となる。
時として、あれこれ計画をめぐらして悪さを働く者は、かえって田舎者に多いという。
それゆえに田舎者の”善”は、本来特別の”善”ではない。
「田舎住まい」と名づけられた一種の勢いに制御されて、善であるのみである。深く感心するに足らない。
その事実は、人間が子供の時のみ無邪気であって、年とともに次第に煩悩をもよおすのに異ならない。
石川五右衛門も2、3歳の時には、必ず純粋で正しく無邪気の子供だったで有ろう事は、想像するに違わないだろう。
さて田舎者が何ゆえ律儀・正直であるのかと考えてみると、第一その地方の範囲が非常に狭くて、一言も一行為のささいな事も、たちまち周りの知るところとなる.
「誰々は何々の金を何円借りてまだ返さない」と言い、
「何々はどこのあぜ道で財布を拾ったようだ」と言い、
「かの男は隣の畑の芋を盗んだ」
「隣村の林を盗んで伐採した」
「昨夜酒を飲んだ」
「今朝団子を食べた」
「あの家の夫婦喧嘩はこんな理由で寺の和尚がこう仲裁した」
などと、その報告が速やかで詳しいのは、これを掌に指さすようである。
そして善を善とし悪を悪とするのは、人間が自然になす本心であって、ひとときでも人道に背く行いを許さず、四方八方があたかも警察の様であるために、このような社会にいて悪事を働こうとすれば、たちまち人に見捨てられて身を置いておく余地がない。
これはつまり、田舎者が割合に正直である理由で有る.この正直者が一旦都会に出れば、辺りの人間は見ず知らずの他人であって、その見聞きから逃れることが簡単であるだけでなく、次第に住み慣れるにしたがって段々と気持ちが大きくなる.そしてたとえ世間に指を指される所となるとも、いわゆる「旅の恥はかきすて」の度胸を決め込み、予想外の悪さをしながら、きょとんとして恥じない者が多い。
私はこれを評して、田舎者が都会の悪風に誘惑されたのだとのみは言わずに、むしろ彼らの生まれ持った性質を現した本来の姿だとするものである。
それであれば、都会・田舎と共に人の善悪は大抵同一の姿で、これを田舎に置けば善であると分かった以上は、
「人間社会を全部田舎のように、また子供のようにしてはどうであろうか?」
との説がある。
ただ一説であるのに留まらず、古くから道徳論者の熱望する所であって、何かの議論のおりには田舎の素朴や正直を持ち上げて、子供の無邪気を取り上げ大人の手本に持ち出すのだが、どうするものだろうか。
文明社会の経営は、田舎者に依頼するべきでない。子供に任すべきでない。
道徳論者も毎度口に論じて、実際に困惑するところの話であるので、私はさらに一歩を進めて、人情の素朴や無邪気などと言う消極的な道徳論を言わずに、ただ真一文字に人の知識を推進し、智が極まる事によって醜悪な活動を防ごうと望むものである。
善を好むのは人の天性であって、争うべきでない。
この事実を知りながらなお悪事を働くのは、結局のところ人の無知にこそ理由があるので、そのおもてうらの関係を分かるようにして人を導く時は、文明進歩が実際に戻ることなく道徳の進歩もまたこれに伴うはずであろう。
これを第一の根本としてとる手短な手段は、社会の交通手段に心を配って、今日で言えば、海陸の汽船・汽車・郵便・電信・電話等はもちろん、書籍や新聞の発行を自由にして、その人の手に渡る事を速やかする。
仮にも社会に生じた千差万別の事柄をもらさずに、人間の住まいと生活、一行・一言の小さいことでも、風俗の邪魔にならない限りはこれを報道して、あちこちの耳と目にふれさせる.その観察が明らかであることが、まるで片田舎の村人が村中の出来事を知るような状態にさせるのは、まさしく醜悪の活動の余地を縮小するための方法で、必ず効果があるべきだろう。
現在の不完全である交通手段でも、すでに多少の効果が無いわけでは無い。
天下後の世、これを10倍にし100倍にする日には、単に交通の一機関だけでも、大いに人の悪い心が作られることを止めるに十分だろうとは、あえて私の信じるところである