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書かれている事のまとめ
江戸時代の本より
- 江戸時代中期(18世紀初頭)には、銭湯はサウナのような蒸し風呂だった.
- ふろふき大根の語源は、お風呂を吹く様子から来ているという説

出典
【出版年】1814年頃
【著者】山東京伝
【書名】骨董集
【タイトル】伊勢の風呂吹
原文の雰囲気は?
□甲陽軍艦 巻之九下 天文一四年の条に云「風呂はいづれの國にも候へども伊勢風呂と申子細は伊勢の國衆ほど熱風呂を好て能吹申さるるに付て上中下ともに熱風呂をすく在郷まで大方風呂一ツに風呂一ツづつ候て、、、
原文の現代語訳
「甲陽軍艦」の第9巻下の天文14年のところに、
「風呂はどこの国にもあるが、伊勢風呂という事を話せば、伊勢の国の人たちは熱い風呂を好んで、よく吹くことから、上中下の人々はみな熱い風呂を好む.
地方までだいたい村一つに風呂が一つづつあって、武士もいやしい身分の者も、風呂を吹く方法を知っているのは、熱い風呂を吹くからと思える.ぬるい風呂に入り馴れた者は、堪えられないようである、うんぬん….」
「本朝諸士百家記(宝永印刷 1710年頃)」の第3巻の中に、婿入りをするので舅の家で風呂を用意してもてなすくだりがあり、
『広蓋(洋服入れ)の中へ、ゆかた、風呂敷、着替えの下帯を用意して、上手な「吹き手」を2人連れてって風呂へ入れさせる、うんぬん….』
「自笑内証鑑(宝永印刷)」の第5巻の中の、大阪道頓堀の風呂屋のことを言うくだりに、
『この風呂へ日が暮れる頃から来て、吹いて吹かれて、ざっと上がり場に座って、しかじか….』
などと書かれているのが見えるので、宝永(1704年)の頃まで「風呂を吹く」という事があったのだろう。
伊勢の人の話を聞いた所、「風呂を吹く」というのは、空風呂(蒸し風呂)をすることであるようだった.
これを「伊勢小風呂」という。
”あかすり”をする仕事の人が、風呂へ入る人の体へ息を吹きかけて”あかすり”をするのである。そうすれば息を吹きかけた所にうるおいが出て、垢が良く落ちるのである。口で拍子をとって、息を吹きかけつつ垢をするのには、上手・下手があって、興味深い事である。
それゆえ、垢をかく者を呼んで「風呂吹」という。今でも伊勢にはこのことがあると語っている。
この話は「甲陽軍艦」という書物に、「伊勢風呂」と書いてあるのに良く合致している。そうであれば、つまり伊勢の風呂吹きは古くからある事である。
かの「そぞろ物語」で書かれていたのも、銭湯という名前は使っていながら、今の湯風呂では無くて、空風呂(蒸し風呂)であったのであろう。
かれこれを参考してみると、昔の風呂は多くは空風呂であったのであろう。ふんどしをして入るのにも、空風呂は都合が良いだろう。「内証鑑」に「ちらしを汲む」ということがある。かけ湯の事をちらしと言っているのである。
さて、大根を熱く蒸して煙の立つぐらいになったのものを、大根の風呂吹きというのも、息を吹きかけて食べる様がかの風呂吹きに似てるからなのだろう。