「人間の心掛けは熱心に過ぎざるに在り」福澤諭吉の人生訓の紹介


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福澤諭吉の本より

世の中を軽く見る決心あってこそ、水火に入る勇気も生まれ、世の中を捨てるのはつまり世の中を活発に渡る根本である.

【出版年】1897年(明治30年)
【著者】福澤諭吉
【書名】福翁百話
【タイトル】事物を軽く視て始めて活発なると得べし(十三)

人間の心掛けは兎角浮世を輕く視て熱心に過ぎざるに在り斯く申せば天下の人心を冷淡に導き萬事に力を盡す者なかる可きやに思はるれども決して然らず浮世を輕く視るは心の本體なり輕く視る其浮世を渡るに活発なるは心の働きなり内心の底に之を輕く、、、

人間の心がけは、とにかく世の中を軽く見て熱心に過ぎないことにある.
こういえば、天下の人々の心を冷淡へ導き、すべての事に対して力を尽くす者がいないのではと思われるけれども、決してそうではない.

世の中を軽く見るのは心の本体である.軽く見ているその世の中を渡るのに活発であることは、心の働きである.内心の底でこれを軽く見るために、よく決断してよく活発となることが出来る.
「捨てるは取るの法である」という、学者のよく考えるべきところのものである.

例えば、碁や将棋の晴れの勝負に是非とも勝とうとする者は、かえって敗北して、無心でいる相手に勝利を渡すことが多い.
その理由は、勝負を軽く見るのと重く見るのとの相違であって、もともと無心でいて晴れの勝負を晴れと思わず、これしきの争いに負けてもかまわないと覚悟するために、自然と決断を速やかにして駆け引きの活発を得ることによる.

また軍人が出陣のときに、家を忘れ、妻子を忘れ、敵に向かって身を忘れるという事がある.これは世の中を軽く見ることの意味に他ならない.
いつもはわが家を思い、妻子を愛して余念がない.まして自分の身を大切にするのは人情の常であって、すこしばかりの病気でさえも用心を怠らないといえども、さて戦場に向かう場面となると一切これを忘れてものの数とも思わないのは、わが身とともに家も妻子をも軽く見て、もともと一物も無いとの安心を決めるためである.
この決心あってこそ、水火に入る勇気をも生まれることであるので、世の中を捨てるのはつまり世の中を活発に渡る根本であると知るべきである.


物事の一方にこり固まって、ものを思うごとに忘れることが出来ず、遂にはその事柄の軽重をみる判断を失って、ただ一筋に自身が大事だとするところを重要視し、思うようにならなければ人を恨んで世をいきどおり、怨恨や憤激の気が内側に熱して顔色にあらわれ、言行に表出し、大事に臨んで方向を誤るものが多い.

単に一人のためだけではなく、天下のために不幸であるというべきだろう.

福翁百話 現代語訳 (角川ソフィア文庫 I 106-2) 

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