樺太を日本領土と主張するため、江戸幕府はロシアに世界地図を見せた


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福地櫻癡の本より

  • 170年前にはすでに、日本とロシアとの間で樺太の領土が問題になっていた.
  • 幕末に、幕府が「樺太は日本国有」と主張するものの、そもそも島に詳しい日本人はいなかった.
  • たまたまオランダ出版の地図に、日露の境界線が書いてあるのを発見し、それをもって日本は北緯50度が世界の公認と主張した.

【出版年】明治27年(1894年)
【著者】福地源一郎[福地櫻癡]
【書名】懐往事談
【タイトル】露國使節の渡来

安政六年七月に至り露西亜國より特命全權を帯びてムラウヰヨフ伯は軍艦四隻を率て横濱に来り直に品川灣に赴きて投錨したり.抑も露國は下田箱舘開港の當初よりして下田へは別に領事を置かず箱舘にのみ領事を置き兼て此領事をして外交事務を掌らしめたり、依て横濱開港に至り、、、

安政6年(1859年)7月になり、ロシアから特命全権を帯びて、ムラヴィヨフ伯は軍艦4隻をひきい横浜にやってきて、ただちに品川湾へおもむき、船のいかりをおろした.


そもそもロシアは、下田・函館開港の当初からも、下田へは別に領事(外交官)を置かず、函館にのみの領事を置いて、一緒にこの領事にて外交事務をも担当させた.

よって横浜開港となり、イギリス・フランス・アメリカ・オランダは、それぞれ横浜に領事を置いて江戸に公使館を設置したものの、ロシアのみはそれを行わず、依然として函館在留の領事によって事を処理させた.

これはロシアの商船が日本に来航の少ない上に、たまたま来るものは函館でのみ商売をするので、そうしているのであった.

しかしながら、日本とロシアの間において、先年から外交上の一問題であったのは、樺太の境界の一事である


樺太の土地を地理上よりいえば、満州に属すべきものにせよ、我が日本の境界中にあるべきものにせよ、実際問題として見てみるときは、従来日本はその南端から進み、ロシアはその北端から進んで、だんだんとその内地において近づき、間もなく衝突する勢いに迫ったのである.

よってロシアは、早くこの境界を定めようと望み、すでに嘉永6年(1853年)の秋、ロシア使節であるプチャーチンが長崎へ来たのも、和親貿易を希望するほかに、この境界を定めることが重点であった.
そうしていながら、当時幕府より全権委任として長崎に出張した筒井肥前守・川路左衛門尉も、樺太の事に関しては元々その詳細を知らない部分であり、幕府においても同じ姿であったので、もろもろの事はおって返答をすると言うことにして、その時期を延ばした.

その後和親貿易の条件は、下田条約および安政5年(1858年)の江戸条約にて事が定まったのではあるが、境界論は依然として未解決の間でうろうろしていたので、今度ロシア政府はムラヴィヨフ伯に全権を与えて、わざわざやって来て談判を開かせたのである.


さて樺太の事については、嘉永6年(1853年)以来、幕府では様々に協議を行っていたが、まず幕府の評議は、
「樺太全島が、我が国有である.」ということを主張する意向であった

しかし実際、函館奉行の報告を詳細に聞いてみると、ロシアが速やかにその北端から南下するにも関わらず、我が日本人の樺太に関しては、わずかにその南端の一角に限られている.さらに北上する動きも無く、少しばかり漁猟の利益をここで得ているのに過ぎないので、一島すべての事は言うまでもなく、その南部の地域でさえも、実は地理や地形の状況を知っているものさえまれである有様であった.


この調子では、樺太全島が国有であると主張するとも、ロシアがこれを承諾して開拓を中止して立ち退くだろうとも思えず、また日本では、ロシアの開拓地にむかって土地を樺太の中央に争うべき実力があるとも思えないので、程よいところで譲歩する必要を感じたようである.

ただしロシアの主張するところというのは、
樺太は本来ロシアの国有であるのに、日本人が南部から来て浸食したものである.しかし、今更日本人をこの島から退去させるのは忍びないので、両国の便宜をはかって、境界を定めようと希望する.」という事にあった.


これに関して、幕府は何ともして樺太が国有である証拠を探し出そうと考えたところに、ちょうどオランダ出版の地球図を見ると、樺太島を北緯50度のところをロシアと日本の境界として、その色分けをしているのを発見した
(これは森山多吉郎氏が偶然見つけたもので、ひそかにその事を筒井・川路の全権大使に教えたと、森山氏の直接の話に聞いた.)

全権大使は、これこそ非常に好都合な材料だと喜んで、
「樺太北緯50度以内は日本の所属であり、世界万国のともに公認している所である.」と公然と主張した.

これをもって、ロシアの談判にあたる基礎となしたので、今度ムラヴィヨフ伯が来て談判をするに臨んでも、幕府の主張はあくまでもこの50度論を固持し、まったく一歩もゆずることをしいてしなかったので、ムラヴィヨフ伯の持つ使命はついにその要領を得ることが出来ずに帰国したのであった.

(当時私は、横浜で仕事し江戸にはいなかったので、親しくこの折衝を聞いたわけではないが、森山氏が現にこの折衝にたずさわっていたので、森山氏から概略を伝え聞いた.ただし、ムラヴィヨフ伯がこの使命に要領を得なかったことは、後年ロシア・日本の境界談判にいたって大いに影響を与えたところとなった.)

ロシアの眼から見た日本: 国防の条件を問いなおす (NHK出版新書 699) 

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