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書かれている事のまとめ
福地櫻痴の本より
- 幕府は、条約で定まった神奈川を開港すると攘夷論[外国人反対派]が問題を起こすと思い、政治上の理由から横浜を開港した.
- そのため三井を含む商人たちが当初横浜に開店したのは、自ら進んでやったのではなく、幕府の圧力によるものであった.
- 外国政府は、勝手に開港する場所を神奈川から横浜に変えた日本を非難したが、外国商人たちは貿易に便利な横浜に賛成し、結局横浜が栄えていった.

出典
【出版年】明治27年(1894年)
【著者】福地源一郎[福地櫻癡]
【書名】懐往事談
【タイトル】神奈川・横浜の議論
原文の雰囲気は?
横濱は原來幕府の旗本某の菜地なりけるが往年米國使節ペルリが初て江戸灣に來れる時に此処にて應接に及たりければ外交には自ら縁故ある所と見えたり.扨條約面に據れば開港の塲所は神奈川と定まれり、然るに當時國家漸く多事にして攘夷論将に其気焔を発し過激の士人は幕府が勅許を、、、
原文の現代語訳
第一 (抜粋)
横浜はもともと幕府の旗本だれだれの領地であるが、往年アメリカ使節のペルリが、ここで応接を行ったので、外交には自然と縁故がある所と見える.
さて条約書面によると、開港の場所は「神奈川」と定まっていた.
しかし当時国家はだんだんと事が多くなり、攘夷論(外国人反対派)がまさにその威勢を発している。過激な人達は、幕府が天皇の許可を待たずに条約に調印して、今また開港の実施に進もうとするのを見て、大いに憤慨し、幕府の政略を妨害しようとする様子をあらわした.
この際に、もし神奈川を開港場と決めて、各国の領事や商人たちがここに家屋を建てつらねて居住し、商売をしたとしたら、その土地は東海道の宿駅で人の行きかいが途切れない。するとかの過激党がどんな暴挙を外国人に加えて、不測の国難を生み出すかも知り難い.
もし神奈川を避けて横浜を開港場としようとするのならば、外国全権(国家代表)等からその理由を責められた時は、
「神奈川とはこのあたり一面の総称である.
現に神奈川駅などは、荒宿町および青木町等の数町から成り立つ宿駅である.横浜などもこれと同じように神奈川中の一つの村であるから、幕府はこの総称となる神奈川の一部分である横浜をもって開港場となすのであるから、条約本文に違反するところは無い.」
と言い訳して、外国全権等へこれを承諾させるべしと決議した.
そうして、すでにこの年の初め(1859年頃)から役員を派遣して、横浜を幕府直轄の土地とし、草を刈り沼地を埋め、市街を計画し埠頭を建設の上、江戸・神奈川・下田・その他各方の商人を奨励・勧誘し、家屋をこの土地に建築させ、外国貿易に従事する用意をなさせた.
そのため三井を初めとして、江戸のおもだった商人たちが当初横浜に開店したのは、全くその店主が奮発して、自ら進んだ商略あっての訳ではない.
商人たちはみな、外国貿易の前途がどうなるかを知らないで、その実内心では「まっぴらごめん」と考えて、前に進もうという意思はなかったのだが、幕府の外国奉行その他がしきりに勧誘して、聞かないのであれば威圧して出店させたのである.
もっとも、自ら進んで出店を望んだ者も若干いたが、これはみんな当時のいわゆる山師(投機師)で、冒険で利益を得ようとする者であり、通常の商人ではなかった.
ゆえに、開港の当日までに横浜に開店した商人たちは、幕府の内々の命令で出店した門閥の豪商と、思わぬ利益を得ようと望んだ冒険的投機商との、2種類をもって組織された者のみであった.
そもそも横浜をもって神奈川開港場にあてたのは、当初水野筑後守・岩瀬肥後守・永井玄蕃頭・井上信濃守・堀織部正・川路左衛門尉などという幕府の役人中の俊傑が、その場面にあたって決議し、閣老・参政などを説きふせ、
「このことをもし外国全権たちが承諾しないのであれば、我らは死をもってこれにあたるべし.」
と決心してその責任をとり、遂にこの準備に至ったのである.
今日からみると、横浜の地勢はもっとも開港場に適当であるのはいうまでもなく、神奈川との比較でないのはもちろんであるが、実際このもろもろの俊傑が横浜を選んだのは、貿易上の都合に出たのではなくて、単に政略上の利害にのみ出たのである.
かの貿易に便利であるというのは、当時にあっては、口実であるにすぎなかった.
しかしながら、この地を選んだ英断は実に価値がある英断で、今日において横浜が繁華であるのはまったくこの英断の結果であるので、歴史を論じ貿易を論じる者は、けしてこの英断の苦心を忘れるべきでない.
もし当時幕府でこの任務にあたっていた者が、外国全権の権勢に恐れて、条約の文字にこだわって神奈川駅を開港場に定めたのであれば、外交上にどれほどの困難をこうむったかは計り知れない.
その上に今日の繁華は決して夢にも想像しえないということは、言わずしても明白である.
そうありながら、かの俊傑たちは儲君論(あとつぎ問題)の一件より、井伊直弼大老の怒りにふれ、川路・岩瀬・永井等は、みんな職を奪われて役目の無い身となる.
堀は函館にあり、井上は上田にいたので、江戸にいるのはわずか水野一人だけであった.
その他は、たいして能力もない平凡な役人であったので、任務にあたる外国方(外交官)はもっとも苦難の地位に立ち、外国係の閣老(役職名)は、脇坂中務少輔・間部下総守の両氏で、外交のことは豪も知らないところであった.
一方で、井伊大老の外交について、今どきのとある歴史家はこの人を評価するのに「開国の深い策略を抱いた先覚者」のように称賛し、横浜の開港の件を取りあげて、この人の功績であるとまで称揚する.
しかし、井伊大老の条約調印の断行に関しては、私が先に「幕府衰亡論」に述べたように、勢いに迫られた断行で、大老が初めから持っていた見識に出たのではない.
また横浜を開港場に指定したのは、まったく外国奉行(外国担当職名)やその他の決議に出たことであるので、井伊大老の指定というのではない.
ゆえに外国関係の任務にあたるものは、井伊大老が幕府の全権を握っているがために、開国の政略を承認して実施させたにも関わらず、能力ある俊傑を一度に失って、ほとんど茫然とした状態でこの開港の計画に至り、さらに一層の苦心を増したことは、私が実体験で目撃したところとする.
神奈川・横浜の議論
条約には明らかに神奈川と定めている.
それであるのに、
「横浜を貿易市場と定めたのはなぜだ?」
「これは条約違反である.当然神奈川に市場を移転するべきだ.」
というのは、外国公使(外国の駐在員)が幕府に向かって、開港一番に非難した一問題である.
現に、アメリカおよびイギリスの両公使などは、しきりにこの説を主張して、開港の初めにあたっては、その領事館を横浜に置かずにこれを神奈川に置き、神奈川駅の寺院を借り入れてその領事館となした.
そもそも幕府が神奈川を避けて、特に横浜を選定したのは、外国公使たちが察していた通り、実に国内の人心の折り合いがつかないのを恐れて、東海道の行き来に横たわった神奈川の駅に外国開港市場があっては、そのせいで幾多の問題を内外の間に招くだろうと恐れて、これを避けた為に違いない.
その外国人に対して、
「神奈川とはこのあたりの総称で、横浜とはその中の村名である.ゆえに、横浜もつまり神奈川の一部である.」
とはこじつけの言い逃れで、神奈川は神奈川、横浜は横浜と、もともと別の場所であるのは相違ない.
また、「神奈川は土地が狭く、海岸が遠浅であるので外国の貿易に便利でなく、横浜の土地は広々としていて海岸が深いので、その形勢には勝てない.」というのも同じく逃げ口上である.貿易の便利さなどは、まったく幕府の役人が場所を選定する際には、その重視する主眼に無かったに違いない.
このような次第であるので、幕府は「神奈川・横浜問題」について、外国公使に非難され、今はどうとも弁解するに言葉がなく、6、7月の会合には、神奈川駅に移転しない訳にはいかない勢いに迫られた.
そして幕府の評議は、当初開港場を横浜に選定した者たちにその責任を負わせ、岩瀬肥後守・永井玄蕃頭・水野筑後守・村垣淡路守・川路左衛門尉・松平河内守・井上信濃守・堀織部正の各人は、この難しい折衝にあたり、以前は果断であると称賛された横浜選定も、今はかえって幕府を困難させる結果となったのである.
もっとも、前年から井伊大老の幕閣(政権)となってより、岩瀬・永井・川路・松平などはすでにしいたげられて、井上は下田に残り、堀は箱根に行ったので、外国奉行の地位にあるのは水野・村垣の両氏であり、水野はほとんど身の置き場がないほどおちいって悲嘆し、幕閣の気力が無いことを嘆いていた.
私は森山先生の塾に入る前に、書生のころから水野氏の愛顧を受け、数か月間その門下の世話になり生徒であったこともあるので、もっとも水野氏には親密であった.
水野氏が7月上旬から神奈川奉行兼任で在勤のときも、朝夕付き従い、このため息を聞いて、岩瀬・川路・永井氏たちの有志とともに協議し、
「幕府の為に計ったものの、神奈川に移転してしまっては絵にかいた餅となってしまう.もし移転することがあれば、外交にはさらに困難を招いて、貿易もそれによって繁栄しないのは確実である.
私は初め偶然に横浜を選定したが、横浜は実に貿易上の景勝地であることを、外国公使たちが気づかないのは非常に遺憾である.」
と言ったのを聞いた.
そうしたところ外国の商人たちは、果たして、その土地の利点に気づいて、おおいに外国公使たちの議論に反対し、
「横浜は決して動かすべからず.神奈川は決して市場の土地にあらず.」
と論じた.
そして公使・領事館等の異議をしりぞけ、おのおの営業所や居宅を争って横浜に建築し、ついには、
「領事館も神奈川駅に置かれると遠いから、不便である、是非ともすぐ横浜に移転するべし.」
と迫った.
これにて公使たちの神奈川論も、自然と消滅して、領事館も横浜に引き移ることとなったのである.
ただし、イギリスは例の保守的な気風であるので、神奈川の領事館も最後に引き払った。
また当時幕府でも、外国人が横浜に対する異論がなくなった後も、なお横浜奉行とは呼ばずに神奈川奉行と呼び、横浜の税関を神奈川運上所と呼ばせて、そうじて往復の書簡にも神奈川横浜と記載し、まるで江戸日本橋というような例を使って幕府が滅亡する夕までこれを改めなかったのは、条約違反の議論を思慮したためであった.