樋口一葉の代表作「にごりえ」 全文現代語訳初編(無料)

1(冒頭)

女「おい、木村さん、信さん、寄っておいでよ!お寄りといったら、寄ってもいいじゃないか.
また素通りしてふたば屋へ行く気だろう?押しかけて行って、引きずって来てやるからそう思いな!
ほんとに風呂屋なら、帰りにはきっとよっておくれよ.ウソっつきだから、何を言うか知れやしない.」
と店先に立ち、馴染みがあるらしいつっかけ下駄を履いた男を捕まえて、小言をいうような物の言いぶり.

男たちは腹も立たないのか、言い訳しながら「あとであとで」と行き過ぎた姿に、ちょっと舌打ちしながら見送って、
女「あとでも無いもんだ.来る気も無いくせに.本当に女房持ちになっては、仕方がないね.」
と、店に向かって敷居をまたぎながら独り言を言えば、
別の女「高ちゃん、だいぶ愚痴っぽいね.なにもそんなに心配するにも及ぶまい.焼けぼっくいに火が付くとか何とか、また寄りの戻ることもあるよ.心配しないで、まじないでもして待つが良いさ.」
と、慰めるような仲間の口ぶり.
女「力(りき)ちゃんとは違って、私にはウデがないからね.一人でも客を逃しては残念さ.私のような運の悪い者には、まじないも何も利きはしない.今夜もまた店番か、なんのことだ面白くもない.」
と、腹立ちまぎれに店先へ腰をかけて、駒下駄のうしろでドンドンと土間を蹴るのは、20歳の上を7つか10か超えた年ごろか。眉毛を引いて生え際を作り、おしろいベッタリとつけて、くちびるは人を食う犬の様に、これでは口紅もいやらしいものである.

おりきと呼ばれたのは、中肉の背格好がすらりとして、洗った髪を大島田に結ったのを、たばねる新藁[しんわら・わらのヘアゴム]のさわやかさ.襟元しかぬらないおしろいも栄えないほど天然の色白を、これみよがしに乳のあたりまで胸をくつろげている.
たばこをスパスパ吸う長キセルに立膝をする行儀の悪さも、咎める人がないのを良い事にして、思い切った大型のゆかたに、ひっかけ結びにした帯は、黒繻子(じゅす)となんやらのまがい物。緋色の帯の先が背中のところに見えて、いわずと知れたこのあたりの姉さま風である.

お高(たか)という方は、天神がえしにした髪の下を洋銀のかんざしで掻きながら、思い出したように、
「りきちゃん、さっきの手紙はお出しかい?」という.
おりきは「はあ」と気のない返事をして、
「どうして返信が来るわけではないけど、あれもお愛想さ.」と笑っている.
「たいがいにおよしなよ.巻紙二まきも書いて、切手二枚の大封筒がお愛想でできるもんかな.
そしてあの人は赤坂からの馴染みではないか.少しやそっとのいざこざがあろうとも、縁切れになってたまるものか.お前のでかた次第でどうでもなるのに、ちっとは精だして取り止めるように心がけたら良かろ.あんまりむくいが良くあるまい.」と言えば、
「ご親切にありがとう.ご忠告は承りおきまして、私はどうもあんな奴は虫が好かないから、無い縁とあきらめてください」と人ごとのように言う.
「あきれたものだの.」と笑って、
「お前なぞは、そのわがままが通るから気が強い.わたしのような身になっては仕方がない.」とうちわを取って足元をあおぎながら、まるで昔は花だったとでもいう言いざまはおかしく、前を通る男を見かけて「よっておいで.」と、夕暮れの店先はにぎわった.


店は幅が二間の二階づくり.軒にはご神灯を吊り下げて盛り塩は景気良く置かれ、空きビンか何か知らないが名酒をたくさん棚の上に並べて、帳場(ちょうば・受付)めいた所も見える.台所には七輪をあおぐ音が時々騒がしく、女あるじが自分で寄せ鍋・茶碗蒸しぐらい作るのももっともなこと.表にかかげた看板を見れば、もっともらしく「御料理」と書かれている.
そうはいっても、出前を頼みに行ったら何と言うだろう.急に今日は品切れですと言い出すのもおかしい.女でないお客様はこちらへお出かけを願います、というのも難しかろう.
世はご都合とか.商売がらを心得て、わざわざ小料理焼き魚を注文しに来る田舎者も無かった.


おりきというのは、この店の一枚看板.年は一番に若いけれども、客を呼ぶのに技術があって、さまで客へ愛想に嬉しがらせを言うような風でも無く、わがまま至極のみの振る舞いをする.少し容貌を自慢するのだと思われて、小面が憎いと陰口を言う仲間もいるけれど、つき合ってみると思いのほかやさしいところがあって、女ながらも離れたくないような心持がする.

ああ、心というのは仕方がないもの.表情がどことなくさえて見えるのは、あの子の本性が現れるのだろう.誰しも新開の土地へ入るほどの者で、菊の井のおりきを知らない者はないだろう.菊の井のおりきか、おりきの菊の井か、それにしても近頃まれな拾いもの.
あの子のおかげで新開の光がやってきた、雇い主は神棚へささげておいてもいいと、店々のうらやみぐさになった.


おたかは、行き来の人がいないのを見て、
「りきちゃん、お前のことだから何があったからといって気にしてもいないけれど、私は身にせまって源さんの事が思われる.
そりゃあ今の身分に落ちぶれては、ねっからいいお客ではないけれども、思い合ったからには仕方がない.年が違おうが、子供がいようがさ.ねえ、そうではないか?奥さんがあるからといって別れられるものかね?かまうことはない、呼び出しておやり.
わたしの男なぞといったら、野郎がねっから心変わりして、あっちが顔を見てさえ逃げ出すのだから仕方がない.どうでも諦めもので、別の男へ行きがかるのだが、お前のはそれとは違う.考えひとつで今の奥さんに離縁をもやれるのだろうけれど、お前は気位が高いから源さんと一緒になろうとは思うまい.それだから、なおの事呼ぶ分に訳があるものか.
手紙をお書き.これからすぐに三河屋の御用聞きが来るだろうから、あの小僧にお使い屋さんをさせるのがいい.なんの人のお嬢様ではあるまいし、ご遠慮ばかりお話してなるものかいな.お前は思い切りが良すぎるからいけない、ともかく手紙をやってごらん.源さんもかわいそうだわな.」
と言いながらおりきを見れば、キセル掃除に余念もないのか、うつむいたまま物も言わない.

やがて雁首(キセルの頭)を綺麗に拭いて、一服吸ってポンとはたき、また吸い付けておたかにキセルを渡しながら、
「気を付けておくれ.店先で言われると人聞きが悪いではないか.菊の井のおりきは、土方の手伝いを間男に持っているなどと勘違いされてもならない.
それは昔の夢語りさ.なんの、今は忘れてしまって源とも七とも思い出されない.もうその話は止め止め.」
と言いながら立ち上がる時、表を通る兵児帯姿の一群れ.
「これ、石川さん、村岡さん!おりきの店をお忘れなされたか?」と呼べば、
「いや、相変わらずの豪傑.」
との声がかかって、「素通りも出来ない」と言ってすっと店に入ってくる.たちまち廊下にバタバタという足音.
「姉さんお銚子.」と声をかければ、「お肴は何を?」と答える.三味線の音色が景気よく聞こえて、はては乱舞の音もまじった.

樋口一葉「にごりえ」原文

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