
2
とある雨の日のつれづれに、表を通る山高帽子を被った30歳くらいの男.
あれなんかでもつかまえないと、この雨の降り方では客の足も止まらないだろうと、おりきは駆け出して袖にすがり、「どうでも行かせません.」と駄々をこねる.
姿が良い身のとく、いつもと違うわけしり顔のお客を呼び入れて、二階の六畳間に三味線の音も無いまま、しめやかな物語をする.
おりきは年を問われて、名前を問われて、その次は親元の調べとなり、
客が「士族か?」と言えば、「それは言われませぬ.」という.
「平民か?」と問えば、「どうでござんしょうか.」と答える.
「そんなら華族か?」と笑いながら聞くと、
「まあ、そう思っていて下され.お華族の姫様が自分の手を使ってのお酌、かたじけなくお受けなされ.」
となみなみと酒をつぐ.
「しかしそんな不作法に置いたままつぐことがあるものか.それは小笠原流か、何流か?」というと、
「おりき流と言って、菊の井一家の作法.畳に酒を飲ませる流儀もあれば、漆器の蓋であほらする流儀もあり、イヤなお人にはお酌をせぬというのが大詰めの最後でござんす.」
とひるむ様子もないのを、客はいよいよ面白がって、
「履歴を話して聞かせよ.きっとすさまじい物語があるに違いない.ただの娘あがりとは思われない.どうだ?」
と聞く.
「御覧なさりませ.まだ髪の間にツノも生えませず、そのように甲羅(年の功)は経ません.」
と声高に笑うのを、
「そう言いぬけてはいけぬ.真実のところを話して聞かせよ.素性が言えぬなら目的でも言え.」
と責める.
「むずかしゅうござんすね.言うたらあなたびっくりなさりましょ.天下を望む大伴黒主(悪人の例え)とは、わたくしが事.」
といよいよ笑う.
「これはどうもならぬ.そのようにおふざけばかり言わないで、少し真のところを聞かせてくれ.いかに朝晩を嘘の中に送るかと言って、ちっとは誠も交わるはず.夫はあったか?それとも親のためか?」
と実心になって聞かれると、おりきは悲しくなって、
「私だとて人間でござんすほどに、少しは心にしみることもありまする.
親は早くに亡くなって、今はほんの手と足ばかり.こんな者だけれど、女房に持とうと言うて下さるのも無いではないけれど、まだ夫は持ちません.どうでか下品に育ちました身ですので、こんな事をして終わるんでござんしょ.」
と投げ出したような言葉に、計り知れない感情があふれて、あだな姿の浮ついた感じにも似ず、一ふししんがある様子の見える.
「何も下品に育ったからといって、夫の持てない事はあるまい.特にお前のような別品さんではあり、ひとっとびにたまのこしにも乗れそうなもの.それともそのような奥様扱いは虫が好かないで、やはり威勢のよい遊びの暮らしが気に入るのか?」
と問えば、
「どうかで、そこらが落ちでござりましょ.こちらで思うようなのは先方様が嫌で、来いと言って下さるお人の内に私が気に入るもない.浮気者のように思し召しましょうが、その日送りでござんす.」
と言う.
「いや、そうは言わさぬ.相手の無い事はあるまい.今店先で誰やらが宜しく言ったと、他の女が言づてたでは無いか.いずれ面白い事があろう、なんだ?」
と言うに、
「ああ、あなたもほんとに穿鑿(せんさく)なさります.馴染みの客はざら紙一面、手紙のやり取りは捨て紙の取り替えっこ.書けとおっしゃれば証書でもお誓いでもお好み次第に差し上げましょう.
男女の約束などと言っても、こちらで破るよりはむしろ先方様の性根無し、主人持ちなら主人が怖く、親持ちなら親の言いなり、振り向いて見てくれなければ、こちらも追いかけて袖をつかまえるには及ばず、それならよせとそれっきりになりまする.相手はいくらもあるけれど、一生を頼む人がないのでござんす.」
と身を寄せる所も無さそうな風情.
「もうこんな話はよしにして、陽気にお遊びなさりまし.私はなんでも沈んだことが大嫌い、騒いでさわいで騒ぎ抜こうと思います.」
と手をたたいて仲間を呼べば、
「おりきちゃん、だいぶおしめやかだね.」
と三十路女の厚化粧が来る.
「おいこの子が想ってる可愛い人は何という名だ?」とだしぬけに男に聞かれて、
「はあ、私はまだお名前を承りませんでした.」
と言う.
「嘘を言うと、盆が来る前に閻魔様へお参りが出来なくなるぞ.」
と笑えば、女は、
「それだとって、あなた.今日お目にかかったばかりでは御座いませんか?今あらためてお伺いに出ようとしていました.」
と言う.
「それは何のことだ?」
と言うと、女は、
「あなたのお名前をさ.」とシャレをあげる.
「馬鹿ばか、おりきが怒るぞ!」と景気よく言う.
無駄ばなしのやり取りに調子づいて、
「だんなの御商売をあてて見せましょうか?」
とおたかが言う.
「どうぞ願います.」
と手のひらを差し出せば、
「いえ、それには及びませぬ.人相で見まする.」
と、いかにも落ち着いた顔付をする.
「よせよせ、じっと眺められて顔の評論会でも始まってはたまらん.こう見えても、僕は官員(役人)だ.」
という.
「嘘をおっしゃれ.日曜の他に遊んで歩く官員様がありますものか.りきちゃん、まあ何でいらっしゃろう?」
と言う.
「化け物ではいらっしゃらないよ.」
と鼻の先で言って、
「わかった人にご褒美だ.」
とふところから財布を出すと、おりきは笑いながら、
「たかちゃん、失礼を言ってはならない.このお方はお高い身分、華族様のおしのび歩きのご遊興さ.何の商売などがおありなさろう.そんなのではない.」
と言いながら、布団の上にのせておいた財布をとりあげて、
「お相方の高尾にこれをお預けなさい.みなの者にご祝儀でもやりましょう.」と答えも聞かずにずんずんと金を引き出すのを、客は柱に寄りかかって眺めながら、小言も言わず、
「諸事お任せ申す.」
と寛大の人である.
おたかはあきれて、
「りきちゃん、たいがいにおしよ.」と言うけれど、
「なに、いいのさ.これはお前に、これは姉さんに、額が大きいので帳場の支払いを取って残りはみんなにやってもいいと、この方はおっしゃる.お礼を申して、頂いていらっしゃい.」
と撒き散らせば、これはこの子のおはこと、馴れた事でさまで遠慮もいう事もなく、
「だんな、よろしいのでございますか?」
とだめ押しして、
「ありがとうございます.」とかきさらって行く後ろ姿を、
「19歳にしては老けているね.」とだんな殿が笑い出す.
「人の悪いことをおっしゃる.」
と、おりきは立って障子を開け、手すりによって頭痛がする頭をたたく.
「お前はどうする?金は欲しくないか?」と問われて、
「私は別に欲しい者がござんした.これさえ頂ければ何より.」
と自分の帯の間から、客の名刺を取り出して頂く真似をすれば、
「いつの間に引き出した.」
「お取替えするには写真をくれ.」
とねだる.
「この次の土曜日に来て下されば、ご一緒に映りましょう.」
と、帰る客をさまで止めもせず、後ろにまわって羽織を着せながら、
「今日は失礼を致しました.またのおいでをお待ちします.」
と言う.
「おい、調子良い事は言うまいな.うその誓いはごめんだ.」
と、笑いながらさっさと立って階段を下りるところ、おりきは帽子を手にして後ろからすがり、
「嘘か誠か、九十九夜の辛抱をなさりませ.菊の井のおりきは、型にはまった女ではござんせぬ.また形の変わることもありまする.」
という.
だんながお帰りと聞いて、仲間の女、帳場の女主人も駆け出して、この度はありがとうと口をそろえたお礼.
頼んでおいた車が来たと、ここからそのまま乗り出せば、家中表へ送り出して、またのお出でをお待ちまするのご愛想は、ご祝儀の光と知られて、後には「りきちゃん大明神様」、これにもありがとうのお礼さまざま.
“樋口一葉の代表作「にごりえ」 全文現代語訳その2(無料)” への2件のフィードバック