
3
客は結城 朝乃助(ゆうき とものすけ)といって、自ら道楽者と名乗るけれども、真面目な所が時々見えて、身は無職業で妻子もない.遊ぶのにちょうど良い年ごろであるからか、これを初めとして週に2,3度通っており、おりきもどことなく懐かしく思うのか、三日見なければ手紙をよこすほどの様子である.
仲間の女どもは、他人の仲ながらからかって、
「りきちゃん、楽しみだろうね.男ぶりはよし、気前はよし.今にあの方は、出世をなさるに違いない.その時はお前の事を、”奥様”とでも言うのであろうに、今っから少し気を付けて、足を出したり湯呑で酒をあおるのだけは止めになさい.人がらが悪く見えるやね.」
と言うのもいるし、
「源さんが聞いたらどうだろう?気違いになるかも知れない.」
と冷やかすもある.
おりきは、
「ああ、馬車に乗って来る時便利が悪いから、道の工事からしてもらいたいね.こんなどぶ板のがたつくような店先へ、それこそ人がらが悪くて横づけにも出来ないではないか.お前さんも、もう少しお行儀を直して、お世話に出られるように心がけておくれどす.」
とズバズバ言う.
「エエ、憎たらしい.その物言いを少し直さないなら奥様らしく聞こえまい.結城さんが来たら思うままに言って、小言を言わせて見せよう.」
そうして朝之助の顔を見たらすぐに、
「こんな事を申していまする.どうしても私共の手にのらないヤンチャなので、あなたからも叱って下され.第一、湯呑で飲むのは体に毒でござりましょ.」
と告げ口すると、結城は真面目になって、
「おりき、酒だけは少しひかえろ.」
との厳しい命令.
「ああ、あなたのようにもない.おりきが無理にも商売をしていられるのは、この力とお分かりなさらぬか?私に酒の気が離れたら、座敷は念仏となえるお堂みたいになりましょう.ちっと察してくだされ.」
というに、
「なるほど、なるほど.」
と、結城は重ねては言わなかった.
ある月の夜に、下座敷へはどこやらの工場の人間の一群がおり、どんぶりを叩いて歌うわ踊るわの大騒ぎをし、大方の女子はそこへ寄り集まって、例の2階の小座敷には結城とおりきの二人きりである.
朝之助は寝転んで、愉快な様子で話しかけるのを、おりきはうるさそうに生返事をして何か考えている様子.
「どうかしたか?また頭痛でも始まったか?」
と聞かれて、
「ナニ、頭痛も何もしませんけれど、しきりに持病が起こったのです.」
という.
「お前の持病は癇癪(かんしゃく)か?」
「いいえ.」
「血の道(女性特有の体調不良全般)か?」
「いいえ.」
「それではなんだ?」
と聞かれて、
「どうも言うことはできませぬ.」
「でも他の人ではなく、僕ではないか.どんなことでも言って良さそうなものだ.まあ何の病気だ?」
というと、
「病気ではござんせん.ただこんな風になって、こんな事を思うのです.」
と言う.
「困った人だな.いろいろ秘密があると見える.おとっさんは?といえば、言われませぬと言う.おかっさんは?と問えば、それも同じ答え.これまでの履歴は?というと、あなたには言われませぬという.
まあ嘘でもいいさ.よしんば作り話にしろ、こういう身の不幸せだとか、大抵の人は言わなきゃならん.しかも一度や二度あっただけでは無いし、そのくらいの事を告げたからといって、差支えは無かろう.よし口に出して言わなかろうとも、お前に思う事のあるのは、メクラのあん摩に探させてもわかる事.聞かなくとも知れているが、それを聞くのだ.どっち道同じことだから、持病というのを先に聞きたい.」
という.
「およしなさいまし.お聞きになっても、つまらぬことでござんす.」
と、おりきは少しも取り合わない.
ちょうどその時、下座敷より皿を運んで来た女が、何やらおりきに耳打ちして、
「ともかく、下へお出でよ.」
という.
「いや、行きたくないからよしておくれ.今夜はお客で大変に酔いましたから、お目にかかったとしても話も出来ませんと断ってくれ.」
「ああ、困った人だな.」
と女は眉を寄せる.
「お前それでもいいのかえ?」
「はあいいのさ.」
と、おりきは膝の上で三味線のバチをもてあそぶ.
女が不思議そうに立っていくのを、客の結城は聞きすまして笑いながら、
「ご遠慮には及ばない.会ってきたらよかろう.何もそんなに格好を気にするには及ばない.可愛い人を素帰りさすのもひどかろう.追いかけて会うがいい.何ならここへでも呼びたまえ、片隅に寄って話の邪魔はすまいから.」
というのに、
「冗談は抜きにして、結城さん.あなたに隠したとしても仕方がないから申しますが、町内で少しは幅を利かせていた蒲団屋の源七という人、久しく馴染みの間柄でござんしたけれど、今は見る影もなく貧乏をして、八百屋の裏の小さな家にカタツムリのようになっていまする.女房もあり、子供もあり.私のような者に会いにくる歳では無いけれど、縁があるのかいまだに時おり何のかんのといって、今も下座敷へ来たのでござんしょう.
何も今さら突き返すという訳ではないけれど、会っては色々面倒なこともあり、寄らずさらわず帰した方がよござんす.恨まれるのは覚悟の上、鬼だともヘビだとも思うがようござります.」
とバチを畳について、少し伸びあがって表を見下ろせば、
「なんと姿が見えるのか?」
と結城はいじる.
「ああ、もう帰ったと思います.」
とおりきは気が抜けている所、
「持病と言うのはそれか?」
と切り込まれて、
「まあそんな所でござんしょう.お医者様でも、草津の湯でも.」
と、ものさびしく笑っている.
「ご本尊を拝みたいな.役者でいったら誰の顔だ?」
といえば、
「みたらびっくりでござりましょう.色の黒い背の高い、不動明王さまの代わり役にでもなる.」
という.
「では、心意気か?」
と問われて、
「こんな店で財産をはたく程の人なんて、人が良いばかりで取柄といっては皆無でござんす.おもしろくも、おかしくも何ともない人.」
というので、
「それにお前はどうしてのぼせた?」
これは聞きどころだと結城は起きかえる.
「おおかた、のぼせ性なんでござんしょう.あなたのことも、このごろは夢に見ない夜はござんせん.奥様のお出来なされた夢をみたり、ぴったりとお出でが止まったところを見たり、まだまだもっと悲しい夢をみて、枕紙がびっしょりになったこともござんす.
高ちゃんなどは、夜寝るからといって枕を取ればすぐいびきの声が高く、いい心持ちらしいが、どんなにうらやましくござんしょう.私はどんな疲れたときでも、とこへはいると目がさえて、それはそれは色々の事を思います.あなたは、私に思う事があるだろうと察していて下さるから嬉しいけれど、まさか私が何を思うか、それこそはお分かりにはなりますまい.
考えたといって仕方がないので、人前ばかりは大陽気.菊の井のおりきは底抜けのしまり無しだ、苦労という事は知るまい、というお客様もござります.ほんとに因果とでもいうものか、私の身くらいかなしい者はあるまいと思います.」
とさめざめとする.
「珍しいことだ.陰気の話を聞かせられる.なぐさめたいにも、ことの様子を知らぬから方法がつかん.夢に見てくれるほどの心があるなら、”奥様にしてくれろ”くらい言いそうなものだのに、根っからお声がけもないのはどういうものだ?
古風な事をいうが、袖ふり合うも縁さ.こんな商売をいやだと思うなら、遠慮なく打ち明け話をするがいい.僕はまた、お前のような性格ではいっそ気楽だとかいう考えで、世を浮いて渡るのかと思ったのに.それでは何か理屈があって、止むを得ずという次第か?苦しくないなら、うけたまわりたいものだ.」
というと、
「あなたに聞いて頂こうと、この間から思いました.だけれども今夜はいけませぬ.」
「なぜなぜ?」
「なぜでもいけませぬ.私がわがままゆえ、申すまいと思うときは、どうしてもいやでござんす.」
と言い、ついと立って縁側に出る.
雲の無い空の月影はすずしく、見下ろす町にからころと駒下駄の音をさせて、行きかう人の影は明らかである.
「結城さん.」
と呼ばれ、
「なんだ?」
とそばへ行けば、
「まあここへお座りなさい.」
と手を取って言う.
「あの果物屋で桃を買う子がござんしょ?可愛らしい四歳くらいの、あれがさっきの人のでござんす.あの小さな子心にも、よくよく憎いと思うと見えて、私のことを”鬼、おに”と言いまする.
まあそんな悪者に見えまするか?」
と、空を見上げてホット息をつく.こらえかねた様子は声音に現れていた.
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