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同じ新開の町はずれの、八百屋と髪結床(かみゆいどこ)がひさしを合わすような細路地.
雨が降る日は傘も差せない程の窮屈さのあいだを、ところどころにどぶ板の落とし穴が危なげなのを足元にして、両側に建てられた棟割長屋(むねわりながや).つき当りのゴミだめの脇に、九尺二間の上がり框(かまち)が腐って、雨戸はいつも不用心な建付の家.山の手地域の幸せは、さすがに開くのは入り口一つではなく、三尺ばかりの縁の先に草ぼうぼうの空き地面がある.その端を少し囲って、青じそ、えぞ菊、インゲン豆のツルなどを、竹のあら垣にからませたのがおりきが縁を持った源七の家である.
女房はお初といって、二十八か、九にもなるだろう.貧しさにやつれているので七つも年が多く見えて、お歯黒はまだらに、生え次第の眉毛は見る影も無い.色あせた鳴海絞り(生地の名前)のゆかたを、古くなった生地の表と裏を切り替えて、膝のあたりは目立た無いように細かくつぎ当てている.
幅狭い帯をきりりと締めて、蝉表の内職をする(駒下駄の表を作る内職).お盆前からかけての暑い時期に、”この時よ”と大汗をかいて稼ぎにせわしなく、そろえた籐(とう:上の表の材料)を天井からつり下げて、わずかな手間もはぶいて数が上がるのを楽しみに、わき目もふらない様子はあわれである.
「もう日が暮れたのに、太吉はなぜ帰って来ぬ.源さんも、またどこを歩いているかしらん.」
と、仕事を片付けてタバコを一服吸い付け、苦労したらしく目をバチつかせる.さらに土瓶を置いた下の火をほじくり、蚊いぶし火鉢に火を取り分けて、三尺ばかりの縁に持ち出し、拾い集めた杉の葉をかぶせて、ふうふうと吹きたてれば、ふすふすと煙が立ち上って軒端に逃げる蚊の声がすさまじい.
太吉はガタガタとどぶ板の音をさせて、
「母さん、今戻った.おとっさんも連れて来たよ.」
と入り口から呼び立てる.
「たいそう遅いではないか.お寺の山へでも行きはしないかと、どのくらい心配したろう.早くおはいり.」
というと、太吉を先に立てて源七は元気が無くぬっと上る.
「おや、お前さんお帰りか.今日はどんなに暑かったでしょう.きっと帰りが早かろうと思って、行水のお湯をわかして置きました.ざっと汗を流したらどうでござんす?太吉もおぶう(お風呂)に入りな.」
と言えば、「あい」と言って帯をほどく.
「お待ち、お待ち.今加減を見てやる.」
と流しもとにタライをすえて、かまのお湯をくみ出し、かき回して手拭いを入れる.
「さあ、お前さん.この子を入れてやって下され.何をぐたりとしておいでなさる?暑さにでも体にさわりはしませぬか?そうでなければ一杯浴びて、さっぱりになってご飯あがれ.太吉が待っていますから.」
「おお、そうだ.」
と思い出したように帯をほどいて流しへおりれば、自然に昔のわが身が思われ、九尺二間の台所で行水を使うとは夢にも思わないもの.ましてや土方の手伝いをして、車の後ろを押す役目をするため、わざわざ親は産んでも下さらないだろう.ああ、つまらぬ夢を見たばかりにと、じっと身に染みて湯も使わないので、
「とっちゃん、背中を洗っておくれ.」
と太吉は無邪気に催促する.
「お前さん.蚊が食いますから、さっさとお上がりなされて.」
と妻も気をつけると、おいおい返事をしながら太吉にも使わせ、自分も浴びて、上にあがれば色あせたサバサバのゆかたを出して、
「お着替えなさいまし.」
という.
帯を巻き付けて風の通る場所に行くと、妻ははげかかって足はよろめいた古い能代の膳に、
「お前の好きな、冷ややっこにしました.」
と、小どんぶりに豆腐を浮かせて、青じその香り強く持って来ると、太吉はいつの間にか台より飯びつを取り下ろして、よっちょいよっちょいとかつぎ出す.
「坊主はおれのそばに来い.」
と頭をなでつつ箸をとれば、心は何を思うというでは無いのに、舌に味の覚えが無くて喉の穴が腫れたよう、もう飯は止めにすると茶碗を置けば、
「そんな事がありますものか!力仕事をする人が、三食のご飯の食べられないという事はない、気分でも悪うござんすか?それともひどくお疲れか?」
と問う.
「いや、どこも何とも無いようだけれど.食べる気にならん.」
というのに、妻は悲しそうな眼をして、
「お前さん、また例のが起こりましたろう?
それは菊の井の鉢や肴は旨くもありましたろうけれど、今の身分で思い出しても何となりまする?あっちは、売り物買い物お金さえ出来たら、昔のように可愛がってくれもしましょう.表を通ってみても分かります.おしろいつけて、いい着物きて、迷ってくる人をだれかれ無しに丸めるのが、あの人達の商売.ああ、俺が貧乏になったから、構ってくれぬな、と思えば何のことなく済みましょう.恨みにでも思っているだけ、お前さんが未練がましいでござんす.
裏町の酒屋の若い者、知っておいでなさろう?二葉屋のお角(おかく)に心から落ち込んで、掛け売りの代金を残らず使い切り、それを埋めようとして博打を始めた(原文:雷神虎が盆筵の端についた)のが身の終わり.次第に悪い事が染みついて、しまいには蔵やぶりまでしたそうな.いま男は監獄入りして、臭い飯を食べているだろうけど、相手のおかくは平気なもの.おもしろおかしく世を渡ってとがめる人も無く、見事繁盛していまする.
あれを思ってみると、商売人の一徳、だまされたのはこちらの罪.考えても始まる事ではござんせぬ.それよりは気を取り直して、働きに精を出し、少しの貯金もこしらえるように心がけて下され.お前に弱られては、私もこの子もどうすることもならないで、それこそ路頭に迷わねばなりませぬ.男らしく思い切る時に諦めて、お金さえ出来るならおりきはおろか、小紫でも揚巻でも別荘をつくって囲ったらようござりましょう.
もうそんな考えごとは止めにして、ご飯をあがってくだされ.坊主までが陰気らしく沈んでしまいました.」
というのを見れば、茶碗と箸をそこに置いて、父と母の顔を見比べ、なんとは知らず気になる様子.
こんな可愛い者さえあるのに、あのような狸の忘れられないのは何の因果かと、胸の中がかき回されるようであるのを、我ながら未練ものめと叱りつけて、
「いやおれだって、そのようにいつまでも馬鹿ではいぬ.おりきなどと名前さえも言ってくれるな.言われると元の失敗を考え出して、いよいよ顔があげられぬ.なんのこの身になって、今更何を思うものか.飯が食えないのもそれは体の具合だろう.なにも、特別心配してくれるには及ばないから、小僧も十分にやってくれ.」
と、ころりと横になって胸のあたりをハタハタと打ちあおぐ.
蚊やりの煙にむせばないまでも、思いに燃えて身の熱げである.
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