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誰がこれを白鬼(しろおに)と名付けたろう?無間地獄(むけんじごく)へそこはかとない景色をつくる.
どこにカラクリがあるとも知れないが、血の池へ逆さに落とし、借金の針の山に追い立てるのもお手の物と聞けば、”寄ってお出でよ”と甘える声も、ヘビを食うキジかと恐ろしくなる.
しかし母の腹の中に10ヵ月同じことをして、乳房にすがっていたころはヨチヨチあわわの可愛げばかり.金と菓子との2つを選べば、”お菓子をおくれ”と手を出した者であるので、今の仕事に誠は無くとも、百人の中の一人には真実からの涙をこぼすものもいよう.
「聞いておくれ、染め物屋のたつさんの事を.昨日も川田屋とかの店で、出しゃばりなおろくとふざけ合い、見たくもない道路まで引っ張り出して、ぶったりぶたれたり.あんな浮ついた考えで将来が遂げられようか?
まあいくつだと思う、30になったのはおととし.いい加減に家でもつくる用意をしておくれと、会うたびに意見を言うが、そのとき限り”おいおい”とそら返事して、根っから気にもとめてはくれない.
とっさんは年を取って、母さんは目の悪い人だから、心配をさせないように早く身持ちを引き締めてくれればいいが.
私はこれでもあの人のはんてんを洗濯して、股引のほころびでも縫ってあげたいと思っているのに、あんな浮ついた心では、いつ私を引き取ってくれるだろう?
考えるとつくづく勤めが嫌になって、お客を呼ぶにも張り合いもない.ああ、くさくさする.」
と、いつもは人さえだます口で、人が冷たいのを恨む言葉を述べながら、頭痛をおさえて思案に暮れるのもいる.
「ああ、今日は盆の16日だ.お閻魔様へのお参りに、連れ立って通る子供の綺麗な着物きて小遣いもらって嬉しそうな顔して行くのは、きっときっと、二人そろって甲斐性のある親を持っているのであろ.
私の息子の与太郎は、今日の休みに主人から休みをもらって、どこへ行ってどんな事をして遊ぼうとも、きっと人がうらやましかろ.
父さんは飲んだくれ、いまだに住む場所も定まらないだろうし、母はこんな身になって、恥ずかしい口紅におしろい姿.もし居所が分かったとして、あの子は会いに来てもくれないだろう.
去年、向島の花見の時に、女をつくり丸髷にゆって、仲間とともに遊び歩いていたとき、土手の茶屋であの子に会って、これこれと声をかけたのでさえ、私の姿の若くなったのにあきれて、”おっかさんですか?”と驚いた様子.ましてや、この大島田にゆった姿に、時おりは季節の花のかんざしを差しひらめかして、お客をつかまえて冗談をいうところを聞いたら、子供心には悲しく思うでしょう.
去年会ったときは、”今は駒形のロウソク屋に勤めています.わたしはどんな辛いことがあっても、必ず辛抱し続けて一人前の男になり、父さんもお前様も、今に楽をさせて申し上げます.どうぞそれまで、何なりと堅気の仕事をして、一人で世を渡って下され.人の女房にだけはならずにいて下され.”と意見を言われたが、悲しいのは女子の身では、マッチの箱貼りの内職をして一人の暮らしも立て難く、そうとはいって、人の台所に立って手伝いするのも、生まれつき弱い体では勤めがたい.同じつらい中にも体の楽であるので、こんな事をして日を送る.
さらさら浮ついた心ではないけれど、言い甲斐の無いおふくろと、あの子は必ずつまはじきをするであろう.いつもは何とも思わない島田の髪が、今日ばかりは恥ずかしい.」
と夕暮れの鏡の前に、涙ぐむものもあるだろう.
菊の井のおりきといっても、悪魔の生まれ変わりではあるまい.何か理由あるからこそ、ここの流れに落ち込んで、嘘をありったけと冗談にその日を送って、心といえば薄い吉野紙にホタルの光がぴかっとするばかり.人らしい涙は百年も我慢して、私ゆえに死ぬ人がいるともご愁傷様と、脇をむいてつらくよそ見をするのことも習ったろう.
そうはいうとも、時おりは悲しい事、恐ろしい事が胸に積み重なって、泣こうにも人目をはばかるので、2階の座敷の床の間に身を投げ出して、人に隠すつらい涙.これを友や仲間にばれないようにと包むので、根性のしっかりした気の強い子という者はいるけれど、触れば切れるクモの糸の様なはかないところを知る人は無かった.
7月16日の夜は、どこの店にも客人がつどって、都都逸・端唄(歌の名前)の音色が景気よく聞こえる.菊の井の下座敷には、店の者が5,6人寄り集まって、音も外れた”紀伊の国”の歌が響き、自慢するのも恐ろしい荒い声に、“霞のころも 衣紋坂”と気取って歌う者もある.
「りきちゃん、どうした?想う男は?心意気を聞かせないか.」
やったやったと責められて、
「お名前はさしませんが、この座の中に.」
といつも通りの嬉しがらせを言って、やんややんやと喜ばれる.そのまま、
「我が恋は 細川谷の丸木橋 渡るにゃ怖し渡らねば…」
と歌いかけたが、何か思い出したように、
「ああ、私はちょっと失礼をします.ごめんなさいよ.」
と三味線を置いて立つので、
「どこへいく、どこへ行く.逃げてはならない.」
と座中が騒ぐ.
「ていちゃん、たかちゃん、少し頼むよ.じきに帰るから.」
といって、ずっと廊下を急ぎ足に出たが、何も振り返らず店口から下駄を履いて、筋向こうの横町の闇へ姿を隠した.
おりきは一目散に家を出て、
”行かれるものならこのまま天竺の果てまで行ってしまいたい、ああいやだ、いやだ.どうしたのなら人の声も聞こえない、物の音もしない、静かな、静かな、自分の心もぼうっとして、物思いの無いところへ行かれるであろう?つまらぬ、くだらぬ、面白くない、情けない悲しい心細い中に、いつまで私は止められているのかしら?これが一生か、一生がこれか、ああイヤだイヤだ.”
と、道端の立木へ心ここになく寄りかかって、しばらくそこに立ち止まっていると、”渡るにゃ怖し渡らねば”と、自分の歌った声がそのままどこともなく響いてきて、
”仕方がない.やっぱり私も丸木橋を渡らなきゃなるまい.父さんも踏み外して落ちてしまいなされ、おじいさんも同じことであったという.どうせ幾世代もの恨みを背負って出た私であるから、するだけのことをしなければ、死んでも死なれぬのであろう.情けないといっても、誰もあわれと思ってくれる人は無いだろうし、悲しいと言えば、商売がらを嫌うと一口に言われてしまう.
ええどうなりとも勝手になれ、勝手になれ.私にはこれ以上考えたといって、私の身の行き方は分からないから、分からぬなりに菊の井のおりきを通して行こう.
人情知らず、義理知らずか、そんなことも思うまい.思ったといってどうなるものだ.こんな身でこんな風体で、こんな運命で、どうしたからといって人並ではないのに相違無いから、人並のことを考えて苦労するだけ間違いであろう.
ああ、陰気らしい.なんだとてこんなところに立っているのか.何しにこんなところへ出て来たのか、馬鹿らしい気違いじみた、我が身ながら分からぬ.もうもう帰りましょう.”
と、横町の闇を離れて、夜店の並ぶにぎやかな小路を、気を紛らわすためにぶらぶら歩けば、行き通う人の顔が小さく小さく、すれ違う人の顔さえも遠くに見るように思われて、我が踏む土だけ一丈ばかりも上にあがっているように、がやがやという声は聞こえるけれど、井戸の底に物を落としたような響きに聞こえて、人の声は人の声、我が考えは我が考えと別々になって、さらに何事にも気が紛れるものがない.人垣ができた夫婦喧嘩の軒先などを過ぎても、ただ我のみは冬枯れの広い野原を行くように、心に止まる物もなく、気にかかる景色にも見えないのは、我ながらひどくひどくのぼせて、人の心が無いのかとはっきりせず、気が狂いはしないかと立ち止まるとたん、
「おりき、どこへ行く?」
と肩を打つ人がある.