福沢諭吉の恋愛観.フリーラブを否定し、人外の動物と言った事

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福沢諭吉の思想と考えのまとめ

  • 自由愛情論(フリーラブ)は心に思うべくして、断じて実際に行うべきではない.
  • 一夫一婦に背くものは人外の動物として排除すべきである.

1897年(明治30年)発行 福澤諭吉の福翁百話の題20「一夫一婦偕老同穴」より現代語訳

「男女室にいるは人の大倫なり.」[※孟子より。男女が同じ部屋にいるのは、人として踏むべき道である]と言う.
いかにもその通りで、天然の約束であるだろう.

さて、天然の約束に従ってその部屋に入る方法をどのようにすべきかというと、人の生まれてから男女はほとんど同数であるので、一夫一婦もまた天然であるようである.

ただその”偕老同穴”と言い、一度定まった夫婦は生涯離れるのを許さないというのについては、ここに一説がある.
いわく、
「男女が互いに会って夫婦となるのは、愛情によってそうするのみ.その情がつきたなら、すなわち互いに別れるべし.双方、体質の強弱、意志の緩急、年月の間に変化の無い事はありえない.したがって、その交情にも自然と変化を生じるのは自然の流れであるのに、今すでにその変化したものを、しいて部屋を同じくさせようとするのは、天然の約束に背くものである.
愛情が互いに向かえば合わせて夫婦となり、その情がつきるのを時期として自由に別れ、さらにほかに向かってよい配偶者を求めるべきである.」
うんぬん、と.

この説を名付けて、自由愛情論(フリーラブ)という.[※原著のルビもフリーラブです.]

自然と聞くべきであるようだが、古くから偕老同穴は、人道の最も重要なものとしてすでにその習慣をなし、社会全体の組織をもこれによって整頓したことなので、いま急に変動しようとするとも容易に行われるはずでない.


およそ人間世界の道徳論は、古くからの習慣より生じるものが多く、世界万人が見るところで美とするものは美であり、醜とするところのものは醜である
たとえば、物の不潔かそうでないかのように、本来の物質を化学上に調査してみれば、天地のあいだ一物として不潔でないものは無い.これを不潔とするのは、物の不潔なのでは無い.ただ人間の感情において不潔とみとめるまでの事であるが、世界で広く多くの人々が皆これを不潔とすれば、これに従わない事は出来ない.化学論の膨大な言葉は取るに足らないのである.

それゆえ、
「今日の世の中にいて、自由愛情論(フリーラブ)は天の命じる所である.道理に背くものでない.」
というとも、世界の見るところで「醜である・不道徳だ」とみとめるときは、道理の論は暗がりに身を縮めるしかない.
ましてや数千年来、人間社会の家は今の婚姻法をもって組織し、あらゆる秩序を整然とさせて美であるにおいて、言うまでもない.


かの自由論などは、心に思うべくして口に言うべきでない.たとえ思い切って口に言うとも、断じて実際に行うべきでない.
開闢以来今日にいたるまでの進歩においては、一夫一婦・偕老同穴を最上の倫理とみとめ、仮にもこれに背くものは人外の動物として排除すべきである.

福沢諭吉の「学問のすすめ」現代語訳

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