- 1895年に日本が清国から台湾を受け取った際、台湾受取書を記載するための紙を日本側が忘れたので、清国側からもらった.
- 船上で清国側の李経方と祝会をした島村久と長田秋濤は、自分たちが安いシャンパンを出したことに気づいて苦笑した.

明治35年(1902年)発行 長田忠一(長田秋濤)の「洋行奇談 新赤毛布」からほぼ原文まま
台湾授受は6月4日であったと思う.
李経芳(りけいほう)は公義号に乗り、馬建忠(ばけんちゅう)、陶大均(とうたいきん)、伍廷芳(ごていほう)、羅豐祿(らほうろく)の諸員を引き連れて、上海より淡水に来た.高千穂艦に護衛されて、三貂湾(さんちょうわん)である総督の所在地に、3日の晩であったと思うが、夜の闇を破って停泊した.
待ち構えていたことではあったので、もはやこちらにおいての準備も十分に行き届いている.
その晩ただちに公義号から、陶大均をもって到着の通知を私たちに向かってなす.我々よりはまた、副官を送ってこれに答礼をさせ、その翌日から台湾授受について談判を始めたのである.
もろもろな議論があったが、これはこの滑稽的な文章に記すべきものではないから省いて、○○○○(※一行程度活字が脱落しているように思えます.)
いよいよ台湾受取書を交換することになったのである.
そうしたところ、我々の側では、どんな不手際であったかこの受取書を記載するのに、一枚の紙も用意していない.
こうしたわけで李経芳の方に人をやって、紙の有無を聞いた所、あちらはすでに何十枚となく大奉書(公文書用の紙)を用意してあって、我々に向かってその半分を割いてゆずってくれたために、これに台湾の受取書というものを記載した.
その記載をしたのは、すなわちわたし秋濤である.
今も受取書が内閣の国庫に残っているだろうし、この清の皇帝に渡した受取書などはあちらに保存されているだろうが、いよいよその受取書を交換することになったのは夜の10時過ぎである.
これには近頃大阪鴻池銀行の頭首をしておられる島村久(特命全権公使)君と、秋濤との二人が派遣されることになった.
李經芳に面会して、互いに無事完了の祝辞を述べあって、書類の交換を済ましたあとに、李經芳はおもむろに私たち二人にむかってシャンパンを飲みつつ、言葉をあらためて、日本皇帝陛下の健康を祝し、また当方においても、清国皇帝の健康を祝した.
そして夜の12時過ぎに、軍艦より放つ祝砲のとどろきの響きと共に、公義号は波をけり立てて上海に向かったのである.
このとき島村久氏と秋濤は、小さい船に乗るやいなや、島村氏が秋濤を振り返って、
「おい、長田君.かなわないな.」
「何がかなわないのです?」
「だって、あのシャンパンの味はどうだ?」
と言われて気が付いてみると、我が横浜丸で李經芳に差し出したシャンパンは値段およそ1,2円のシャンパン.あちらが我々についだシャンパンは、およそ12,3円の物.
亡国に近い国とは言いながら、やはり大きなところは大きいもので、ケチケチしたことはさすがに彼はしないものだと二人はおたがいにかえりみて苦笑した.