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概略
- 大正七年(1918年)の大隈重信の談によると、北海道を開拓したのは産業の開発よりもむしろ国防のためであった.


大正7年(1918年)発行 「開道五十年記念 北海道」より 大隈重信序文の現代語訳
北海道の地は、幕府の時代にこれを蝦夷と呼んで、早くから開拓につとめていた所であったが、その目的とするところは、産業の開発よりもむしろ国防の完備を期待することにあった.
ゆえに明治2年、開拓使節を設置した当時の御沙汰書[#天皇の指示書]の中にも、
「北門の鎖鑰を厳に樹立して皇威を更張すべし」[#北方の防御を厳しく立て、日本の武力を拡張すべし]との達しがある.
これはつまり、ロシアの侵略に備えるために外ならず、幕府時代よりロシアの圧迫を恐れいたことに基づくのである.
そもそも幕府がロシアの圧迫を感じ始めたのは、光格天皇が治めた徳川家斉将軍の時代であり、松平楽翁公(#松平定信)が幕府の政権をとっていた時のころであるが、これはまさに幕府がヨーロッパ文明の東へ進みいくことに驚かされた発端であった.
当時のロシアは世界の恐れる所であったが、我が国などはこれを恐れる事が一層はなはだしかった.
そうしてこのころより我が国には、高山彦九郎、蒲生君平、林小平などの熱烈な勤王家[#天皇派]、愛国者の奮起をみたが、その近因はまったくロシアの脅威に端を発したものである.ついで起こった尊王攘夷論の主な動機も、また元々ここに存するというべきである.
こうして蝦夷問題は極めて重大となり、近藤重蔵、間宮林蔵氏などのような人々の活躍となり、間宮氏などは樺太から沿海洲にまで渡航して探検に従事し、当時まだ樺太島を一個の半島であると想像していたヨーロッパ人が、かつて知らなかった海峡を発見して、これに間宮海峡と名付けたほどである.その他、伊能忠敬氏の蝦夷測量図などは、なお今日に存在するものがある.このように外来勢力の圧迫は、多くの優れた人物を我が国に輩出させたが、その直接の刺激はまったくロシアの圧迫にあったのである.
そうして文化元年にロシア使節レザノットが来朝し、我が国に求めるところあったものの、望みを果たさなかったため、北海におもむいて暴挙を試みて以来、我が北辺に対する圧迫はいよいよ事実となり、低気圧は次第に北方より襲って来た.
ここにおいて”北門の鎖鑰を固める”急務がいよいよ切実となり、ついに明治維新の改革がなるとともに、蝦夷をあらためて北海道と名付け、国郡の名前を定め、開拓使が設置されるに至った.
それより50年間、北海道の開発進歩は実に驚くべきものである一方で、100年前に世界の恐怖であったロシアが今や解体し、かえって我が国を恐れるような有様になったのを考え合わす時は、実に国家興亡の予測は出来ず、その変遷のはなはだしい事を感じざるを得ない.
これをどうして、歴史上の一大教訓では無いといえようか.
私は、我が日本の進歩が、ロシアの刺激に負うところが大きい事を思い、かつて”北門の鎖鑰”として議論された北海道の地が、開道50年後の今日、人口において当時6万に満たなかったものが、最近200余万に増加したのを始めとして、産業、交通その他あらゆる方面において、異常の発達を遂げた実状に照らし、今昔の感を深くするものである.
これをもって本書の序とする.
大正七年四月二七日
侯爵 大隈重信