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書かれている事のまとめ
大正時代の本より
- 森永製菓創業者森永太一郎が、日本へ西洋菓子を広めた第一人者となり、日本菓子の歴史は森永太一郎の履歴とまで言われるようになったエピソード
- 太一郎は幼いころから貧しく、仕事先も相次いで閉店するなど非常な苦労をしたが、不撓不屈の精神と義理に厚い心で精錬し、やがてアメリカにわたって西洋菓子を学んだ.
- 夫婦で職を探しに向かう中、疲れて歩けなくなった所を助けてくれた農家の人に恩を抱いて、20年後その行方を捜した
- アメリカの菓子店で職長に見込まれ、西洋菓子に精通することとなり、帰国の際、3分の1の元手で商売をするというアドバイスをもらった.



出典
【出版年】大正7年[1918年]
【著者】不明
【書名】開道五十年記念 北海道
【タイトル】ミルクキャラメルで成功した帝国製菓界の大権威 森永製菓株式会社
原文の雰囲気は?
西洋菓子と云へば森永を聯想し、森永と云へば西洋菓子を聯想する程其名を喧傳せらるる森永製菓株式會社は、現下は芝田町電車通りと、北品川御殿山下と大阪市外鷺洲とに宏壮なる工場を有して、資本金百二十萬圓、使用人一千八百人を有する大會社なりしも、僅々十數年前には、、、
原文の現代語訳
資本金120万円
取締役社長 森永太一郎
取締役 藤村義苗
取締役・支配人 松崎半三郎
取締役 高木貞幹
監査役 伊藤鼎
監査役 渡邊雄男
西洋菓子と言えば森永を連想し、森永と言えば西洋菓子を連想するほど、その名が世に伝わった森永製菓株式会社は、今芝田町電車通りと、北品川御殿山下と大阪市外鷺洲とに広大な工場を所有して、資本金120万円、使用人1,800人を有する大会社である.
しかしわずか十数年前には、赤坂溜池で2坪の非常に小さい借家にいて、森永社長が自ら筒袖端折[つまり作業姿]で真っ黒になって働き、櫻田本郷町の保井砂糖店は値段が安いとわざわざそこまで買いに行き、日々僅かな材料を仕込みながら菓子を製造していた.
そしてたちまちその運命を開拓し、一躍してその経歴が、我が国における西洋菓子界の歴史であるとまで世にうたわれる様になったのは、全く森永社長その人の忍耐、熱烈、活動の結晶に他ならない.
日本においていち早く西洋菓子を製造したのは風月堂その他であるというとも、これらはみなどこも、小売を主として製造したのに過ぎない.しかしながら、早くより国家経済の見地から着眼して専門的に西洋菓子の製造に従事し、仮にも交通機関のある土地は、日本全国津々浦々にいたるまで西洋菓子を味わうことが出来るようになったのは、ひとえに森永太一郎その人のたまものと言わざるを得ない.
このように日本製菓界に与えた偉大な力があるだけでなく、その個人としての奮闘の歴史などは聞いて後の人の模範とするべきものがある.私は今その経歴を紹介して、いきた教訓を味わおうとする.
森永太一郎は、慶応元年[1865年]に陶器で有名な肥前の伊万里に生まれた.
森永家はもともと土地の名家であったが、不幸続きで家の財産を失い、太一郎が3歳のときに父親は病気で亡くなり、祖母に連れられて親戚中をあちらこちらへとさまよった.まだ右左さへ分からないころから非常に貧しさと身寄りのない孤独で苦難をなめ、10歳の春、同地の山崎文左衛門という陶器商で姻戚の店に丁稚で住み込んだ.昼はほうき掃きをして働き、夜は近くの漢学塾へ通学して、13歳のころから店の伊万里焼を背負って近くの町村で行商をし、精を出して怠る事が無かった.
主人はこれを大いに寵愛して、18歳の夏には取引先である横浜の陶器商有田屋へ、卸し側として派遣された.これは太一郎がよその土地へ踏み出した最初であった.
横浜に3年いて妻を迎えたものの、ほどなくして有田屋はやむなく閉店となり、太一郎もついに故郷へ引き上げたが、財産を築いて錦の衣で帰ったものでは無かったため、親戚や旧友で太一郎を気にかける者は誰もいなかった.
凡人であったらこの境遇に会って、人を恨み、世を恨み、むなしく一生を酔生夢死で終わるかも知れない。しかし、もともと不撓不屈の精神を備えた太一郎は、大いに視野が開けて悟る所があった.
健全な身体をもとでにして大いに健闘し、いつか錦を衣にして故郷に帰ろうと決心した。そしておじから与えられた50銭を使って陶器を買い、途中これを転売しながらわずかな旅費を得て、夫婦ともに乗船して神戸に上陸した.
わずかな旅費も消費して、ふところには一つの物も無く、東西も知らない土地にいて行う手段も無い.ある周旋屋に頼んで夫婦ともに茶屋敷へ住み込む事となったが、慣れない仕事に我慢ができず、ついに夫婦連れ立って神戸を出発して近江路を下り、たどりたどって美濃大垣付近へ来た.その頃には、旅費はまったく残しておらず、空腹が身に迫って歩くことが出来なくなった。加えて暑さは焼けるようで、体は疲れて綿のように、夫婦は道端に座って疲労困憊した.
たまたま一人の農家の人間がこの姿を見て同情し、親切に家に連れて帰って一泊させた.翌朝少しのお金と3食分の握り飯を太一郎にあげて出発させた.
後年、太一郎が以前から抱いていた志をとげて、その農家を訪ねて20年前の恩に報おうとわざわざ大垣に行き、捜査に手を尽くし、あるいは新聞に広告してそのありかを探したが、ついに分からなかった.そしてその付近の2,3の小学校へ寄付金をして、少しばかりあの時の農夫の恩へ報いた美談がある.
こうして横浜に到着し、綿屋陶器店に雇われて勤務するうち、同店の支配人道谷太四郎が独立して営業をするにあたって、強く望まれて店の業務につとめていた.しかし店主の太四郎は商機を誤り、失敗の結果やむなく閉店となった.
のちに再挙を図るため、売れ残りの陶器をたずさえ、明治21年[1888年]太一郎はアメリカへ渡航した.
東へ行き西へ向かってかろうじてこの陶器を売りつくしたものの、その売り上げ金はすぐに道谷へ送金した。そしてなおアメリカに足をとどめて、他で雇われて手に入れた金で前述の損金全部を卸元に返金するまでは、日本に残した妻子の苦境を知りながらも、私情を捨てて一文も送金しなかったという.
またこのことから、いかに太一郎が正直で道義に厚いか、その一端を知るべきである.
その後アメリカにいて、時には皿洗いとなり、時には室内掃除のボーイとなり、デー、オーク[day work(?) 日雇い労働者]などの見すぼらしい姿でことごとく苦労をなめた.
ある時パン屋に勤めて数年を経たのち、オークランドのブルーシングという菓子店へ勤務した。品物の配達・掃除人となって力を注いで精励し、非常に職長に見込まれて部下に採用された.それから心は菓子製造一つに集中して、ついに十数年の歳月を経て、今は西洋菓子の製造に精通し、また千数百円の貯蓄を得るにいたった.
この時代、日々製造場で手書きした油の浸った手帳は、現に森永家の家宝として存在している.
明治32年[1899年]日本に帰国する.
アメリカを出発するにあたって主人のブルーシンクは、太一郎にある良い餞別を送った.
「お前は今度日本へ帰って菓子の営業を始めるそうだが、なんでも商売の秘訣は、千円の資本であれば三分の一、三百円くらいで始めるがいい.もし失敗したらまたさらに三百円を支出し、また失敗したならまた三百円と、前後三回くらいに資本を出せば、まずまず成功するだろう.」
と親切に訓戒した.
太一郎はこの教えを心にとどめて忘れず、三百円で機械を買い、残金を手元に残して帰国し、千円の金は銀行へ預けて手を付けなかった.
明治32年8月末、赤坂溜池に小さな家を借り、太一郎自身で原料の買い出しから製造まですべて一人で、わき目もふらず勉強した。しかし、開業早々で1年ほどは思うように売れ行きも無く、困難の境遇におちいった.
再びアメリカへ行こうと思った事も再三あったが、不撓不屈の精神をはげまして営業を継続するうち、ふとアメリカ公使夫人ミセスバックに知られて、「森永の菓子は本国と同様の味でうまい」と、色々な所へ言い広められた.三宮太夫なども種々上流社会へ紹介されて、ようやく上流階級のお得意も増え、業務も日々多忙となって来た.
明治35年、赤坂田町5丁目へ工場を新築する機運に出会い、この機会を失うまいと東京の主要な新聞へ破天荒な広告をのせ、その他あらゆる方面へ広告して発展策を講じた.売上高は急激に増加し大正博覧会へ出品して大好評を博して、ここでわずかにその基礎を樹立すべき手がかりを得るにいたった.
そうして同社製品の販路は、主に支那、満州、インド、オーストラリア、南洋諸島、ボルネオ、ジャワ、スマトラ、マレー半島、シャム[今のタイあたり]等であって、内地も会社の発展以来、西洋品は全部輸入を防ぎ止めた.
これは輸出税の増加という関税政策の原因も多少あるに違いないが、ともかく森永製菓の発展が大きな動機となっていることは疑いなしと信じている.
国産奨励・輸入防止の功績は非常に大きい.
同社が西洋菓子一切を製造するのはもちろんであるというとも、その中最も力を注ぎつつあるのは、例のミルク、キャラメルである.
価格の安さ、手軽さ、風味の良さ、衛生面の良さ、これら多くの特徴をもって世の中に抜きん出た人気を博している.大正4年4月より製造を開始し、翌5年には一日の生産額実に30万円に達し、同社のミルクキャラメルの製造力は世界一となった.その製造工場は広大で使用人数千人を使い、機械の装置、設備の完全、その偉観は実に我が帝国中他に肩を比べるものがない製菓界の一大権威というべきである.
ヨーロッパの戦乱が勃興してから事業は早く発展し、ここに拡張・進展の必要性が起こり、さらに七十万円を増資して百二十万円の資本金に改め、ますます大発展の隆盛を見込む.
今後同社の発展ぶりは、まったく予想することが出来ないものもあろう.