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まとめ
- 江戸時代の著作者である滝沢馬琴の、子供のころの思い出話.
- 屋形船の納涼、花火、飴売り、乾物で作った仏像、品川に鯨が流れ着いて鯨の絵が流行った事.
- 当時の江戸の様子や文化が、非常に生き生きと書かれています.

出典
【出版年】文化8年(1811年)刊行
【著者】曲亭馬琴
【書名】燕石雑志
【タイトル】四時代謝(しじのゆきかい)
現代語訳
100年前の事はみな言い伝えに残るのみで、誰が目の当たりに見て話すものがあろう.
人も自分も、推量の説だけなので、何を本当として、何を嘘としよう.
ここ3,40年の程は、自分が親しく見もし、聞きもしたところである.春の花は秋の紅葉に染め変わって、若葉色づく夏山は雪積もる峰と映えるのみだけでなく、季節の移り行くままに目覚めることもある.
明和・安永[1770年前後]のころ、新大橋のこちら側の岸を埋め立ててつき出し、これを「中洲」と呼んで、あちらこちらの人がここに集まって涼んでいる光景は、言葉では言い表せなかった.
茶店などはよしずを立てながら河原へ並び連ね、数えれば100軒ばかり.火をともした提灯は、どれほどあったろうか、これを向かいの岸から眺めてみると、尾張の津島の船祭を見る心地がした.
涼み船がたくさん出た.
「高尾」「丸川」「吉野丸」「神田丸」など名を呼んだ屋形船はもちろん、屋根船、猪牙(ちょき)、にたり等という船なども、広い河なみに所せましと浮かべられた.
花火を売る船あり、酒を売る船、果物売る船あり.人の奏でる音楽の響きは、水と陸とをひとつにし、小唄、芝居、水を使ったカラクリもある.
物まねする乞食に足を止められて見物する者、夜の更けるのを知らずに、背の低い男は前の大男に文句を言い、小さい子は親の肩に乗せられて、こんなに涼しい川風が袖から吹き入るのも知らないで、玉の汗をぬぐうこともなく、ほこりにまみれて帰る者もいる.
四季庵とか言う小料理屋は、新大橋の西側の海の先に出ている.
このあたりから見渡せば、花火の船に人がやって来て、「龍勢」「虎の尾」「星くだり」などと言う花火をいくつともなく上げる.岸と橋に集まった皆々は、「あな玉屋、鍵屋」とほめる間に、やがてはかなくも消えていった.
昔慶長[1600年前後]のころに、夏の日の暑さに苦しんで、みんな納涼のため船に屋根を造ってかけさせ、これを借りて浅草河を乗りまわした、これは舟遊びの初めだと、”昔々物語”という本に言っている.
(この本の中に、明暦3年[1657年]の災害後、3,4年は舟遊びをせず、萬治[1660年頃]になってまた涼み船を造り出し、みんな夏の日の暑さをしのいで、かつ災害の苦労を忘れた.よってこのことがいよいよ流行って、人がみんな小さい船を不便に思ったので、舟も次第に大きくなっていたと書かれている.)
今は人の心がだんだん賢くなって、もろもろ質素であるからだろう、炎暑の時と言っても屋形船などは稀である.
また宝暦[1764年頃]の末から明和にかけて、路上で飴を売り歩く者に、”土平”という者がいた.
私が5つ6つくらいのころには、もう古びたものであったが、なお「どへい、どへい」と歌いながらやってきた.飴を買おうと言う子供には、自分の姿を描きその歌さえ書いたものを、すきかえしという紙に写したものをあげていた.
私はその一枚をとってあるので、ちなみに下へ模写した.

諸国の有名な仏像が人に連れてこられて、この大江戸にて拝むことが出来る.どれもこれもいい加減なものはないだろうけれど、明和7年[1770年]の夏、洛北嵯峨の清凉寺の釈迦如来が、回向院にて拝まれた際には、この年は雨が降らずに暑さが堪えがたいのをものともせず、仏様のご加護のためと参詣した老若は、いく億万とも分からないほどであった.
私はわずかに4つの歳だったので、しもべに背負われて参ったのだけれど、あかね染めの服の胸のあたりが汗で染みて、しもべがきていた上着の紺色がうつって黒くなってしまったのを、6つ7つの時に見たのは覚えているのに、参った事はよく覚えていない.
安永7年[1778年]の夏のころ、信濃の善光寺の阿弥陀如来が、これも回向院で拝むことが出来た.
近くの村の者たちはもちろん、あちこちの若い者も老いた者も、朝から晩までみな大念仏を唱え、お参りすることおびただしくて、言葉もない.
その時は両国橋のあちらこちらに見世物が多く出た.
”とんだ霊宝(れいほう)”と名付けて、乾物や干魚、なにかれと取り集めて仏の形をつくり、あるいは鳥や動物の形をつくって並べていた.

また”鬼娘(おにむすめ)”と書きつけたのぼりを立てて、非常に恐ろしい姿の、かたわもの[障碍者]を見せている.
更に千年経つ”うぐらもち”というものを見せた.世間ではなまって、「もぐらもち」もしくは「もぐら」と呼んでいる.これは本郷にいる大根畠というところの商人が、麹の室[麹を造る部屋]でつかまえたと言っている.
このとし5月のころ、三崎で四角の竹の子が生え出たと、人がみんな見に行った.また木挽町にいる勘彌の芝居が非常に珍しく繁盛するといって、”三つの不思議”と言いはやされた.
誰が詠んだか、
「三崎(さんさき)の 四角竹の子 千年の もぐらはたけに 勘彌(かんや)大入り」
いつもの人の癖だろう.
かの四角の竹の子は、始めに土から出る時、細い枠をうち着せて、こんな風に作ったとのこと.
今急に思い出してとても珍しく思ったのは、寛政10年の5月、品川の海へ鯨の流れついたことである.「海鰌録」という本もこの時に出て来た.大体は「鯨志」という本に似ている.鯨の絵を描いたうちわなどを、人々が競ってもてあそんだ.
浅間山が焼けるといって、諸国へ砂を降らしたのは、天明3年の7月である.