明治元年天皇が東京へ行幸した際、伊勢神宮の鳥居の笠木が落ちた騒ぎ


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明治時代の本より

明治元年、明治天皇が東京へご訪問となったことは非常な騒ぎとなり、京都の人々など反対論者も多かった.出発となったその夕べ、伊勢神宮の鳥居の笠木が落ち、神官たちは重大な異変として上申をした.

【出版年】明治31年増刊
【著者】子爵福羽美君へのインタビュー
【書名】太陽第四巻第九号臨時増刊 尊都三十年
【タイトル】御東幸の反対論

、、、西國の各藩士が、主上を遠き関東に擁しまいらせ、私意を働らき、皇室を危くすべしといふ者と、桓武以来千有餘年の帝都を離れて、遠方に行幸し給うふこと、祖宗の神慮に敵はずといふ者とにありき、而して其中には、眞正に主上の御爲を思ふのみならず、自身の利害の上にも、住み馴れたる京都を、、、

明治元年始めて天皇が東京へお越しなされる際も、またその翌年お越しなされる際にも、京都では、宮、堂上、市民にも、多くの反対者がいたのは事実である.

そうしてその理由とするところは、西方の各藩士が、天皇を遠い関東へお連れなして、自分が思うままを働き、皇室を危うくするだろうという者と、桓武天皇以来千年を超える帝都[京都]を離れて、遠方にお越しなされることは、祖先のご意向にかなわないという者とにあった.

そうしてその中には、本当に天皇のためを思うのみならず、自身の利害の上にも、住み馴れた京都を離れることを嫌う公家方もいれば、もし関東にご逗留されることが長きに及ぶときは、京都が衰えていくことを憂慮する京都市民もいて、よって東京ご訪問反対の声が高かったのである.


私はそのころ、神祇官[官庁の一つ]と、制度取り調べと、世論を聞くことの三種の任務を兼ねていたが、東京訪問は祖先のご意向にかなわないという攻撃に対しては、私は説明を必要とする地位にいた.
こうして明治元年9月、多くの反対論があったにも関わらず、私も東京ご訪問実施すべきとの意見を持ち、いよいよご訪問に決定した.ご出発の日には、京都の役人はたいがい蹴上[けあげ:地名]までお送りし、私も送迎者の中にいた.

そうしたところ、同日夕刻役所から自宅に帰り、晩餐を終え、来客と談話中、神祇官から一通の書面を送って来た.開き見ると、中には伊勢神宮の神官から、
今回大廟前の華表[鳥居]の笠木が墜落した.時節がら、東京ご訪問の前にこの変事があるのは、非常に考えるべきものだと信じ、直ちにお申し出に及ぶ.」と書かれていた.
私はこれを見て、神祇官のうろたえた状況を察し、かつ神祇官の諸有司が、ご訪問に反対の理由とする意図も察したので、軽率に騒いで人の心を刺激するのを心配し、わざわざその書面を預かったまま、なお他の来客と談話を続けた.


しかししばらくして、また神祇官より急ぎの使いをもって、直ちに出頭すべきことを命じられたので、そうなるなと思いながら、前の伊勢神宮の上申書を胸に抱いて出頭した.

長官近衛忠房公以下、同僚の諸有司も並び座って、まず長官から、
「先刻伊勢の神官から提出した上申書を見たか?」
と問われたので、
「確かに見て、ここに持ってきました.」
と答えた所、さらにそれに対する意見を質問され、かつ、
「このような大事をなぜそのままにしたのだ.また自らの手で上申書を握って動かさないのはどういう意図だ?」
非常に激高して問い詰めて来たので、私はこれに答えて、
「本来、華表の笠木が落ちたといって、何の恐れる事がありましょう.ただ偶然の事変に過ぎません.それであるのに、伊勢からは非常にうろたえた様子で申し出をして来たのでさえ、非常に意味を得ないのに、まして私の方でさらに事々しく騒ぐのは、今日ご出発の後、不用意に人の心を騒がし、微塵も利益がなくて害は非常に大きい.ゆえに、人の心を鎮静するために、私はことさらに落ち着いた様を維持しました.もしこのせいで責任を受けるのであれば、私はあえてこれを辞しません.」

ここにおいて、他の同僚と意見が異なったので、翌日双方ともその意見を太政官[当時の最高官庁]に上申することに決めて別れた.そうしたところ太政官では、笠木の墜落に恐怖するほどの保守派もいなかったと見えて、そのことは以後何の話もなく止んだ.


特に明治維新の初めには、何事にも保守主義と進歩主義との上に衝突したので、ご訪問の反対論も、またその一端であった.
そうして極端な進歩主義者の中には、今の大蔵大臣である井上伯[井上馨]のように、その首領[おかしら]で、文物制度は一切ヨーロッパ主義を唱えて、衣服飲食も一切古いものを改め、食はパンとし、服は洋服とし、水田を廃止して羊を飼って洋服の生地の原料にすべきとさえ唱えて、かつて岩倉故右府[岩倉具視]の前で、右府は親しく井上伯を指示し、この井上がこういう議論を吐いている、と語られたことさえある程なので、その極端に走る者があったのは想うべきである.

したがって、この大変革に仰天して、行く末を憂慮して反対した保守家の多かったのも当然である.
これら進歩・保守の二正義の対峙する間に、適度にこれを調和して、首尾よく維新の功業をなしたのは、朝廷にいる諸公の力であるも、中でも私はもっとも多くその功績を三條公及び西郷隆盛に向けるものである.

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