ゴロツキの集まりだった日本警察を整備した大木喬任のエピソード


この記事は6分で読めます.

明治時代の本より

  • 明治初年に東京府知事[東京都知事]であった大木喬任が、江戸から東京になった際の警察設立について語ったインタビュー.
  • 当初はゴロツキを集めて作った警察を整備するため、彌助という人物を任務にあたらせたが、気の毒にも彌助はすぐにこの一味に惨殺されてしまった.
大木喬任侯爵の肖像写真
大木喬任伯爵の写真

【出版年】明治31年増刊
【著者】大木喬任へのインタビュー
【書名】太陽第四巻第九号臨時増刊 尊都三十年
【タイトル】尊都當時の東京(伯爵大木喬任君の談)

ほぼ原文のまま.

[略]、、、さようさね.おれも全く当初の警察の事には肝胆を砕いたよ.
おれが就職前には東京に「鎮将府」というものがあって、総督が有栖川宮様であった.

当時東京府の知事の職をしていたのが、烏丸光徳で、そのころの警察事務というものは、常備兵というのがやっていた.この常備兵の組織は、東京から野州、相州[関東]、そのほかの地方の博徒[博打うち]、浪人、ゴロツキをかり集めて作ったもので、警察とはいうものの、当時この組くらい泥棒を働いたものはなかった

市中の地面で金になりそうな所へは、”御用地”という札をどこへでも立てる.すると地主がはい付いて「何卒ご免をこうむりたい」と願う.「じゃあ金を出せ、許してやる」という風であった.
そのほか常備兵が強盗を働く、食い逃げをする、まっ、今の人に言わしたら、無政府、無警察と言うに違いない.
また全くさようであった.

おれが奉職するようになって、第一に警察を完成しなければならぬというので、種々苦心をしたが、いい方法もなく、さしあたり鹿島・高知・山口・それに佐賀も少しは交じっておったが知らぬが、その三藩へ警察を依頼して、常備兵を解放することになった.

が、これが一大困難である.
常備兵を解放すれば、必ず乱暴を働くに違いない.だからかなり穏便に取り計らいたいものだと思って、告諭文を作った.今は持っていないがなかなか長いものである.
それで与力の彌助というものを調停にやって、解放のことをつかさらどらしめた.
この彌助というものは非常に侠気[男気]のある者で、使者に立つ前に言うには、
「私はとてもこの度は助かりません.お上の為に一命を捨てますから.」と言って、涙を流して出た.

これが明治元年の末で、明けて明治二年正月二日、東京府へ使者がきて、
「ただいま彌助は常備兵の為に惨殺されました.」というので、一時は上を下へと大騒動をした.
実に彌助は気の毒な事をしたが、これがために警察はいくばくかまとまって来たのである.

この間も尊都祭のくわだてがあると聞いて、我々同志は彌助の家族をにぎわしてやろうと思い、探してみると、まだ未亡人と、子女が存在して、ことにあわれな境遇であるという事がわかり、心ばかりの香料を送ったら、未亡人も感涙して、彌助の三十年忌を行ったということである.

明治時代がわかる本

コメントを残す